東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

長野へ行った話5(終)

最終日は小布施と戸隠へ行くことにした。帰りの新幹線が15時発だったから、14時くらいまでには長野駅へ戻れるよう、予定を組むことにした。

 

天気予報では翌日から大寒波が襲来するという話で、まだそんなに寒くはなかったが、戸隠あたりはすでに雪が積もっているらしかった。

 

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ホテルは9時前にチェックアウトし、長野駅東口のコインパーキングに停めておいたレンタカーに乗り、9時過ぎに出発した。渋滞はほとんどなく、30分ほどで小布施に到着した。

 

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小布施といえば、栗菓子と北斎館が有名だ。駐車場へ入るや否や、北斎館の端にある小屋でヒマそうに座っていた中年男性が、我々の車に近寄ってきた。すぐに駐車料金の回収だと気が付いたから、窓を開けて、500円玉を1枚差し出した。駐車料金は400円だった。

 

平日の午前ゆえか観光客がほとんどおらず、駐車場には先客が1台停めているだけだった。北斎館の入館料は1000円だった。館内は静かだったが、内装業者が時折大声でしゃべっていた。

 

入口からすぐの場所にミニシアター的な空間があり、北斎と小布施の関係を紹介する動画を流していた。動画は2種あり、とりあえず、すでに流れている動画を途中から観ることにした。

 

動画はショートムービーのようで、中々面白かった。1本目の動画が終わると、短時間の休憩タイムがあった。すると、2本目の動画が始まるや否や、見知らぬおばちゃんが、館内の見知らぬ観光客たちに向かって、関西弁なまりの標準語で「始まりますよ!」と叫んだ。本来、美術館では何をどう鑑賞しようが個人の勝手だ。他の観光客など放っておけば良いと思ったが、おばちゃんは御節介な人らしかった。

 

途中、ABCらしき家族のツアー客がゾロゾロと館内に入ってきた。その中に、挙動不審な若者が何人かいて、館内の空気を乱しているようだった。ABCというのはAmerican-born Chineseの略で、黄色人種(中国人)なのに中身は白色人種のようであるから、中国では香蕉人(バナナ人)と呼ぶこともある。

 

逆に、海外移住後も中国文化に染まったままの中国人は、外見も中身も黄色(アジア人)のままだから、芒果人(マンゴー人)と呼んだりする。さらに、中国文化にドップリと傾倒している白人のことは、外観が白いのに中身が中国人のようであるから、鸡蛋人(タマゴ人)と呼ぶ。ちなみに、中医批判の本を上梓したり、ウェブ上で似非科学や宗教批判に躍起になっている中国人の某作家は、ウェブ上で香蕉人と揶揄されることもあれば、无理取闹な人だとか、洋奴などとも呼ばれることもあるようだ。

 

動画を見終わったあとは、こびととは別行動で、館内に掲示された浮世絵を観ることにした。たまに、美術館で知ったかぶりの知識を大声で披露している迷惑千万な輩がいるけれど、芸術性の高い作品は、可能な限り静かな環境かつ自分のペースで鑑賞したい、と常々思う。

 

しばらくすると、こびとがABCらしきオッサンに話しかけられていた。彼は香港近くの何とか島の出身で、20年前にオーストラリアへ移住し、医者をしていると言った。今回は東京で行われていた医学会議に出席するため、日本へ来たとのことだった。日本語は全く解せない様子であったが、当然ながら英語と普通话はネイティブレベルだった。日本には家族と2週間滞在する予定で、京都や北海道へ行ったあと、何故か長野市の小布施へ来た、と言った。さらに、彼は「北斎の絵は素晴らしい」と言った。私が鍼灸師をやっていると言うと、オッサンは私も患者の希望があれば針治療をすると言った。オーストラリアでも、去年トランプ大統領が署名した某法案の影響があるのだろうか、と想像した。

 

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北斎館を出たあとは、隣にある高井鴻山記念館へ行こうと思ったが、時間がなかったので、すぐに戸隠神社へ行くことにした。 

 

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戸隠周辺は少し雪が積もっていたが、道路の雪は解けていて、走りやすかった。今回は、最短距離に位置する奥社だけお参りすることにした。

 

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参道には15cmくらい雪が積もっていた。鳥居付近の木に「クマ出没注意」の表示があった。最近は食糧不足などが原因で冬眠しない熊がいるらしいから、冬場でも熊に遭遇する可能性がある。新宿か吉祥寺のモンベルで熊除けの鈴を買っておくべきだったと後悔した。

 

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冬の平日ゆえか歩いている人はほとんどおらず、遠くに1人、2人幽(かす)かに人影が見えるくらいだった。時間はちょうど12:30を過ぎていた。公衆トイレに置いてあった地図によれば、奥社までの距離は約2キロあり、この路面状況だと、最低でも往復1時間はかかるだろうと予測した。新幹線は15:00発だから、13:30までには戸隠を出なければならなかった。本当は、参道入口にあったそば屋でそばを食いたかったが、今回は諦めることにした。

 

木漏れ日の下、平坦な道をしばし歩くと、茅葺屋根が印象的な随神門が見えてきた。屋根には先の尖った大きなツララが無数にぶら下がっており、落ちて来ぬものかという一抹の不安を抱きながら、素早く通過した。ノースフェイスのブーツを履いていたから積雪は問題なかったけれど、日陰ではツルツルと滑って危険だった。トレッキングシューズか後付けのスパイクを持参するべきだったな、と後悔したが、ここで戻るのは癪に触るから、気合で歩き続けることにした。こびとはUGGのブーツを履いていたが、ノースフェイスのブーツより酷く滑っていた。

 

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転倒寸前な状態で15分ほど歩き続けると、さすがに息が上がってきて、正面から歩いてきた中年カップルに、思わず「奥社はあとどのくらいですか?」と聞いてしまった。夫らしき男性が「あと10分くらいですよ」と言ったが、凍結して滑り台のようになっていた階段を目の前にすると、まだまだ時間がかかりそうな気がした。

 

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結局、奥社に着いたのはちょうど13時だった。帰りは半ば滑りながら下った。時間はかなりタイトだったが、奥社にお参りできて満足した。

 

予定通り、14時過ぎにはレンタカーを返却することができた。新幹線の出発時刻まで少し時間があったので、長野駅東口1階の土産屋を冷やかすことにした。中国人らしき若者数人が、お土産に何を買うかで何やらもめていた。店員の中年女性は中国人と片言の英語でやり取りしていたが、お互いに理解できていない様子だった。

 

やはり、これからは日本でも、华人やヨーロッパの人々のように多言語を自在に操れなければ、どこにでもあるサービス業なんかは外国人に職を奪われてしまうケースが増えてくるかもしれない。実際、最近のサービス業では流暢な日本語をしゃべる中国人が腐りそうなほど存在するけれど、高考対策で狂ったように勉強した中国人にとっては、日本語や英語をマスターするなんてのは朝飯前なのだろう。

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土産屋を出たあとは、隣にあったそば屋でそばを食べることにした。店内は厨房を囲むようなコの字型のカウンター席のみで、東京の立ち食いそば屋を二回り大きくしたくらいの広さだった。昼時を過ぎていたからか客はまばらで、店内には地元民らしきお爺さんが独りで座っているだけで、ラジオの音だけが静かに流れていた。温かい鴨南蛮そばを注文した。この類のそば屋にしては中々美味かった。

 

 

 

長野へ行った話4

本堂をお参りしたあとは、本堂裏手にある善光寺史料館へ行くことにした。240万余りの英霊が祀られた霊廟ゆえか、九段下にある某神社のような雰囲気が感じられて、あまり長居できなかった。何より、床下から足に伝わる冷気が強すぎた。

 

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史料館の外には、なぜか牛2頭のレプリカが飾ってあった。足元を見ると、森永乳業寄贈、と記されていた。どこぞの暇人が、牛の耳の上に椿らしき花を置いていた。 

 

こびとが、参道にある昭和チックな本屋で買ったばかりの、フクロウ柄の御朱印帳に早速御朱印してもらいたいと言ったので、勧募窓口へ行くことにした。

 

受付にいた初老の僧侶らしき男性に300円を手渡した。彼は慣れた手つきで御朱印帳を開き、サラサラと筆を滑らせ、最後に朱色の判子をポンと押し、判子が別のページに写らぬよう半紙を挟み、無言でこちらに差し出した。出雲大社に比べると、中々面白みのある御朱印だった。

 

長野と言えば、信州蕎麦以外にお焼きがあるから、お焼きの美味そうな店を探すことにした。10年ほど前に、奥多摩あたりで美味いお焼きを食べたことがある。具材は野沢菜を炒めたらしきモノで、皮はモチモチとしていて美味かった。今回も同じようなお焼きが食べられるのではないかと密かに期待していた。

 

参道でお焼きを売っている店は数店あったが、観光客が少ないためか、大半は冷めたお焼きしか置いていないようだった。出来れば热乎乎なお焼きを食べたかったから、湯気が立ち上る店を探すことにした。結局、1店舗だけ湯気が上っている店があった。粒あん入りのお焼きを買ってみたが、コンビニの中華まんのような柔らかめの生地で、個人的にはもっとモッチリしている方がいいな、と思った。

 

仁王門を出たあとは、八幡屋磯五郎で師匠へのお土産に詰め合わせの唐からしセットを買った。ここの七味は東京だとカルディコーヒーなどで購入できるが、香りが素晴らしく、温かいそばに入れて食べると大変によろしい。一味は辛すぎるから、個人的にはベーシックな七味と深煎七味が特によろしい。そういえば、某メーカーの七味には、何かの陰謀かと思わせる如き大粒の芥子の実が入っており、至って食べにくいから買わないことにしている。

 

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善光寺を出たあとは、温泉へ行くことにした。アメリカンなんとかという薬局などに寄り道していたら、すでに日が暮れかかっていた。長野市の良いところは、逢魔が時にアルプスの美しい稜線が見えることだ。東京でも青梅市あたりへ行けば山が綺麗に見えるけれど、長野付近のアルプスが最も急峻で美しい。やはり、山が見えると心が落ち着く。

 

温泉を調べる時は、基本的にGoogleMapの口コミを参考にしている。アマゾンと同様、高評価にはヤラセ的な怪しい口コミが多いが、低評価の口コミはだいたい真実であることが多い。確かに同業者やオツムがアレな人々が嘘を書いていることもあるが、特に病院などは実際に行ってみると、口コミに書かれたとおりの酷さであることがよくある。

 

ちなみに、鍼灸院や整骨院のGoogleMapの口コミで、5つ星の評価しかなく、その評価者のアカウントがすべて新規であったり、他の商店などを評価している形跡がなければ、オーナーの自作自演である可能性が高い。だいたい、口コミで広まったような、本当に患者から信頼されている鍼灸院は、患者が自分の予約が取りにくくなるのを恐れ、口外しない傾向にあるから、GoogleMapの口コミが増えることはあまりない。特に、10年以上前から、GoogleMapが登場するより前から存在する鍼灸院などにそういう傾向が顕著だ。

 

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今回は、ゆったり苑という温泉へ行った。何よりも清潔そうな感じが決め手になった。地元民らしき人々でかなり混んでいたが、洗い場や浴槽に入れないというほど混んではいなかった。むしろ、露天風呂は人が少なく快適だった。

 

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風呂上りは「無重力マッサージ」を謳うマッサージ機に座ってみたが、重力下で無重力マッサージなんてできるはずもなく、結局、座面が180度くらいまで開いてかなり後方まで倒れるもんだから、気分が悪くなり、騙された気がした。マッサージ機の横には、珍しく瓶入りコークの販売機があった。個人的には、これは麻薬であると認識しているが、実際に1年に1回くらいは飲みたくなることがある。ちなみに、中学生以来、中毒だったドクターペッパーはすでに卒業している。

 

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結局、八ヶ岳乳業の牛乳を飲むことにした。マクロビオティックなどに傾倒している人々は牛乳なんて飲むなと言うが、「人間に牛乳は必要ない!牛乳は絶対に飲まない!」とキチ〇イ染みた感じでヒステリックになって叫んでいる人よりも、「たまに牛乳飲むかな」というような具合に囚われが少ない人の方が健康に生きているように思える。確かに、放射性物質まみれの食品はヒステリックになってでも避けるべきだが、そういう危険性のない牛乳はたまに飲むくらいなら良いと思う。 

 

温泉に入って体がポカポカしたあとは、市内を車でグルグル廻って良さそうな飯屋を探すことにした。しかし、1時間ほど探したが、善光寺付近を離れると恐ろしいくらいに閑散としていて、結局、長野駅前に戻ることにした。一旦ホテルに戻って荷物を置いてから、徒歩で駅まで行き、再度飯屋を探すことにした。

 

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駅前にはお天気キャスターらしき女性と撮影スタッフが、夕方の生放送らしき準備をしていた。きっと、毎日この場所で撮影しているのだろうな、と思った。

 

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まだ真新しさが感じられる駅ビルのスーパーは、主に観光客向けの品ばかりで、どれも割高に感じられた。なんで島根の干し柿が売っているのだろうかと思ったら、「島娘」という商品名の、JA佐渡干し柿だった。

 

島根県の柿と言えば、宍道湖沿いの湖北線に看板がある富有柿や、プリっとした形の西条柿が有名だ。島根県と仲良しなのか敵(かたき)なのかわからぬ鳥取県でも西条柿は有名で、すでに16世紀半ばには武士の保存食として渋柿の加工が始まっていたらしい。

 

東京で栽培されている柿は基本的に甘柿だ。西条柿は渋柿だから、わざわざ渋抜きをしないと食べられない。最初から甘柿を植えりゃあ面倒がなくて良いと思うが、そうなると関東と差別化が図れないから、未だにドライアイスを使って渋抜きして、特産品として売り出す必要性があるのかもしれない。まぁ、食は多様性があった方が良い。

 

実家の庭には柿の木が何本かあったが、どれも典型的な甘柿で、成熟するとタンニンが黒く固まって斑点になる、カリカリ、ザラザラとした食感が特徴の品種だった。柿は庭で好きなだけもげたから、実家を離れるまでは、市販の柿はほとんど食べる機会が無かった。それゆえ、島根で初めて渋柿の切り口を見た時は、余りにも味気ない感じで驚いたが、実際に食べてみると、西条柿の上品な口当たりは中々良いものだと知った。 

 

柿は中国の長江・黄河流域が原産だが、現在は中国各地で栽培されており、900種以上の柿が存在しているそうだ。日本には平安期に中国大陸から伝播し栽培が始まったと言われているが、フランスやアメリカには19世紀頃に伝播し、アメリカ東部には氷点下18度でも育つ品種が存在するらしい。中国ではドロドロに熟した柿を食べるのが好まれると聞いたことがあるけれど、実際にはどうなんだろう。

 

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そういえば、たまに散歩に出かける、皇居東御苑にも小さな柿の木がある。東御苑内には多種多様な植物がみられるが、柿は祇園坊、四溝、禅寺丸、堂上蜂屋、豊岡などが植えられている。

 

駅ビル1階のスーパーを冷やかしたあとは、2階へ上がることにした。2階は長野産の土産が一堂に会したような雰囲気で、小布施の栗菓子や地酒、ハム、キノコの加工品などが並べられていた。

 

ある土産屋には、ギャル風のお姉さんが店頭に立っていたが、こびとが「あの人つけまつげがズレてるよ!」と耳打ちしてきた。怪談話に出てきそうなほどホラブルなズレかただったが、接客中のお姉さんにまつげを直す余裕はないようだった。

 

3階にはアメリカのアップルのロゴをパクったような看板が掲げられた広場があったが、ほとんどの椅子は高校生が占領していた。外は寒いし、東京と違って、駅ナカ以外にたむろする場所がないんだろうな、と思った。

 

3階の飯屋は、東京でも馴染みのあるチェーン店ばかりだった。定食屋とかつ丼屋もあったが、どこも満席で、必然的にチェーン店を選ぶしかなかった。信州蕎麦の店もあるにはあったが、こびとが「昼に蕎麦を食べたから蕎麦以外のものにしよう」と言った。駅ビルを出て、見慣れぬ街を徘徊する気力はなかったので、某パスタ屋で妥協することにした。

 

長野県に旅行に来て、東京にもチェーン店がある岡山県の会社が経営する神奈川県鎌倉市風のパスタを食べるのはいかがなものかと思ったが、コンビニの弁当を食べるのもアレだと思い、仕方なく入ることにした。

 

食後は連絡通路を通って隣の商業施設へ移動したが、東京で見慣れた商品ばかりで面白くなかった。最近、駅ビルのテナントは全国どこへ行っても同じ様相を呈しているように感じるが、どこでも同じサービスや商品を享受できるという点に関しては、便利なのだろうな、と思った。 

 

1階にはスタバがあったが、東京のスタバに比べ、スタバ特有の雰囲気に、より一層ドップリ浸っているような人が多いように感じられた。

 

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スタバを冷やかしたあとは駅前のドン・キホーテへ行ったが、甲州銘菓である信玄桃に一模一样な菓子や、北海道銘菓である白い恋人と間違えて買ってしまいそうな菓子があった。土産菓子は全国各地に似たものが存在するけれど、ここまでくると、もはやどこが元祖なのかわからなくなってくる。やはり、トラブルを避けるためにも、商標登録は必須だな、と思った。

長野へ行った話3

そばを食べたあとは、参道を上り、善光寺へお参りすることにした。参道は緩やかな坂になっていた。

 

参道には様々な店が並んでいたが、どこも閑散としていて唯一、人だかりが出来ていたのは、八幡屋磯五郎(やわたやいそごろう)という善光寺門前にある七味唐辛子の専門店だけだった。 

 

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店頭には八幡屋磯五郎のランドマークらしき七味唐辛子の罐を大きくした椅子が置かれており、観光客の大半はこの椅子に腰掛けて写真を撮っていた。こびとが写真を撮ってくれと言ったので、何枚か撮ってやった。適当にシャッターを切ったつもりだったが、案外巧(うま)い写真が撮れた。

 

店頭に置かれた椅子はすでに数か所に凹みがみられた。おそらく、観光客が座る際に意図せずして蹴りを入れた結果であろうが、椅子にはそれなりの耐久性と強度が求められるわけで、簡単に凹む素材をボディに使うのはいかがなものか、強度試験は行っているのだろうか、などと考えた。他で売っている缶スツールは、蹴りを入れてもそう簡単には凹まないし、一般的なオイル缶ベースのスツールの相場は5,000円前後だ。これで16,200円はちょっと高い。デザインは中々良いから、もう少し強度を上げて安くなれば買う気になるかもしれないな、と思った。

 

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門前には様々な土産物屋が並んでいたが、どこも空いていたので、のんびりと歩くことができた。土日だとかなり混むそうだから、平日に観光できる自営業は大変よろしい。

 

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善光寺は642年の創建以来、たびたび火事に遭っているそうで、現在の本堂は1707年(宝永4年)に再建されたらしい。1707年と言えば宝永大噴火があった年だ。本堂は国宝建造物では、東日本最大だそうだ。

 

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善光寺と言えば、本堂床下にある全長45mのお戒壇めぐりが有名だ。券売機でお戒壇めぐりと善光寺史料館拝観が可能なチケットを2枚購入した。券売機の前にはびんずる尊者と呼ばれている仏像があり、自分の病んだ部分をなでると神通力で治してもらえるらしく、欲望に忠実な中高年者がペタペタと仏像を撫でまわしていた。仏像は度重なるペタペタ行為で出羽三山即身仏のような風貌になっていた。

 

有料のためか、お戒壇めぐりをしている人はほとんどいなかった。戒壇の入り口には「携帯電話などでお戒壇内を照らすのはお止めください」と、朱色の筆で書かれた注意書きがあった。最近はマナーや節度が欠如したD〇Nが増えているから、戒壇内で騒いだり、ライトを照らして動画撮影する輩がいるのかもしれないな、と思った。

 

戒壇の入り口には、大学生の一人旅と思しき、中肉中背の若い男が立っていたが、どうやら入り口から垣間見える闇に恐れ戦(おのの)いている様子で、遠巻きに入口を眺めながら、誰か先に入らぬものかと待っている様子であった。仕方がないので、まずは私が率先して入ることにした。

 

10段ほどの狭い階段を下ると、入口から奥はまさに漆黒の闇だった。戒壇内に足を踏み入れた瞬間、忘れていたある古い記憶が、パッとフラッシュバックした。

 

もう20年ほど前の話だ。バイクの免許を取得して間もない頃、バイク乗りの仲間数人と、富士へツーリングに行った。我々は怖いもの見たさで富士の樹海を練り歩いたあと、いくつかの氷穴をめぐり、最後に某神社内にある古い洞穴内を探検してみよう、ということになった。某神社の場所は地図に記されていなかったが、何とか辿り着くことができた。この洞穴は、宝永大噴火よりも前の噴火による溶岩流で形成され、何故か、100km近く離れた江の島まで通じているという伝説がある。

 

この洞穴を含む神社は心霊スポットとしても有名で、鳥居をくぐると霊障で帰りに事故ると噂されていたから、みな鳥居をくぐらずに入った。奇妙なことに、洞穴内に入ろうとするや否や、不意に1匹の蜂が入口をふさぎ、これ以上は進むなという素振りを見せた。唯物主義者に近かった我々は少しひるんだが、ここはかつては富士信仰の修行場であったはずだから入っても問題なかろう、と楽観的に考え、洞穴内へ入ることにした(現在、洞穴内への入場は許可制になっている)。

 

洞穴内はひんやりと涼しく、ほぼ真っ暗で、かがまなければ入れないほど天井が低かった。ぬかるんだ足元に注意しながら進むと、誰かが灯した小さな蝋燭が幽かに狭い範囲を照らしており、奥に小さな石仏が安置されているのが見えた。

 

石仏に向かって合掌したあと、すぐに神社を出ることにしたが、帰り際に何気なく鳥居を見上げると、鳥居に掛けられていた注連縄(しめなわ)が真ん中から真っ二つにちぎれていることに気が付いた。これは不味い場所に来てしまったかな、とみな顔を見合わせ、足早にその場を離れることにした。本当はこの神社の近くにある、私の好きな女優が経営するお洒落なカフェに行く予定だったが、何だかんだで行く気が失せてしまった。

 

何の明かりも灯さず戒壇内を歩くという行為は、現代人が忘れていた原始的な恐怖感を呼び覚ますようで、積極的に入りたいと思う人はあまりいないかもしれない。しかし、一方で、未知の世界に対する好奇心も湧き上がってくるわけで、とりあえず、入ってみることにした。

 

右側壁面にある手すりを右手でたどり、御本尊の真下にある「鍵」に触れることができれば、功徳が得られるとか、死んだあと極楽浄土に行けるなどと言われているらしい。

 

戒壇内を数メートル歩くと、入口から差し込んでいた明かりが完全に途絶え、眼が全く役に立たない状態になった。当然ながら、眼は光があってこそ機能するから、真っ暗闇では眼を開いていようが閉じていようが同じであることに、今更ながら気が付いた。

 

戒壇内は暗いだけでなく、無音でもあったから、方向感覚が完全に無くなってしまうようで、このまま進んだら異次元に飛んでしまうのではなかろうか、という妙な不安が込み上げてきた。

 

手すりを頼りにしばし歩くと、通路が右に曲がっているのがわかった。しかし暗すぎて、どのくらいの距離を歩いたかが判然とせず、その先のルートもわからなかったので、ここは小さな広場になっていて、ここからUターンして入口まで戻るのであろうな、と頭の中で空間を描き、適当に判断した。前後には誰の気配も感じられなかったから、とりあえず、再び来た道を戻ることにした。

 

しばらく歩くと、正面から誰かが近づいて来るのがわかった。きっと遅れて入ってきたこびとだろうと思い、その体を軽く叩いて、「先に出とくよ」と言った。すると、少し離れた場所から、こびとの「わかった」と言う声が聞こえたが、同時にすぐそばで「ヒッ!」と驚くような声が聞こえた。

 

遅いなぁと思いながら入口を覗き込んで待っていると、こびとが何事もなかったかのように、お堂の奥からピコピコとこちらへ向かって歩いてきた。目の前にある入り口から出てくると思い込んでいた人が、予想外にも別の場所から出てきたもんだから、心臓が飛び出しそうになったが、驚いた素振りを見せたらこびとに馬鹿にされると思い、平静を装うことにした。

 

どうやら本当の出口は本堂の奥にあるらしかった。本来、戒壇内はUターンせず、そのまま道なりに進まねばならなかったらしい。ちなみに、私が戒壇内で触れた人はこびとではなく、我々の後から入ってきた大学生らしかった。きっと彼は何も見えぬ暗闇で、逆走禁止の戒壇内を逆走する人に不意に体を触られて、さぞや驚いたに違いない、ちょっと可哀そうなことをしたな、と思った。

 

その大学生はこびとが出てきたあと数分遅れでやっと出口から顔を出したが、予想外の恐怖体験にかなり憔悴(しょうすい)しているように見えた。自分がある意味DQ〇を馬鹿にできない行為をしてしまったことに、少し後悔した。

 

こびとが、「途中でUターンするのは縁起が良くない」と言ったので、もう一度最初から、お戒壇めぐりをすることになった。ハッキリ言って戒壇内は心地の良いものではなく、何も見えない状態でルートもわからぬまま45m歩くことは、それなりの精神力を要することがわかった。

 

真っ暗な戒壇内では、常軌を逸し、発狂したり、錯乱してしまう人が少なからずいるのではなかろうか。私が戒壇内にいた時は前後に誰も歩いている人がおらず、少しばかり強烈な体験になったけれど、何故だかもう1度めぐってみたい気もした。

長野へ行った話2

東京駅発の北陸新幹線長野駅まで行き、長野駅東口にあるレンタカー屋でレンタカーを借りて、長野市内を徘徊することにした。

 

仕事の都合上、休暇がとれるのは最大でも3日程度なので、今回は長野市内で1泊することにした。そうなると、やはり長野駅近辺で泊まるのが便利だと考え、ホテルサンルート長野に予約を入れた。

 

東海道新幹線と同様、北陸新幹線にも「ぷらっとこだま」のような「新幹線+ホテル」のプランがある。基本的に旅は泊まる場所の貴賤よりも、巡る場所の方が重要だと考えているから、ロケーションや清掃具合が極端に悪くない限り、安いホテルでも構わない。中国の薄汚いホテルに何度も泊まったせいか、日本の質素なビジネスホテルで満足できるようになった。今回は往復の新幹線代とホテル1泊料金込みで、基本料金は1人あたり17,000円くらいだったが、追加料金を支払ってグリーン車にした。

 

最近、新幹線内で物騒な事件が増えているので、新幹線に乗る時は必ずグリーン車と決めている。これまで事件が起こっているのは、だいたいグリーン車以外の車両だ。そもそも、犯罪者がハイジャックするためにファーストクラスを予約したり、繁華街を暴走するために高級外車のレンタカーを予約する可能性は低い。

 

それゆえ、懐具合の許す限り、購入可能な安全はなるべく買うようにしている。例えば、バイク乗りが安全のために、スネル規格を超越したアライ規格をクリアしたヘルメットを買ったり、アウトバーンの長距離移動が日常化しているビジネスマンが安全のために、EURO NCAPのクラッシュテストでペシャンコになるような車を避けて最高評価のドイツ車を買うようなものだ。近年露呈し出した多くの偽装問題で明らかなように、日本の安全神話はとうに崩れ去ってしまっているから、お金が許す限り、買える安全で自衛するしかないと思っている。 

 

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東京9:00発のはくたかに乗った。北陸新幹線には初めて乗ったが、揺れも少なく静かで、シートも比較的快適だった。しかし、グリーン車なのにフットレストが装備されていないのはいかがなものか。

 

乗客の半数以上は外国人だった。軽井沢あたりから、遠足らしき小学生の集団が乗ってきた。長野駅で降りるらしく、出口で一緒に並ぶことになったが、私の前に立っていたジャイ子似かつBMIの高そうな女の子が、鼻〇ソをほじり出しては口に運ぶ、という不快な行為を繰り返していた。この先の日本は大丈夫だろうか、と不安になった。

 

長野駅に来たのは初めてだったが、Google Mapのおかげで、東口にあるレンタカー屋はすぐに見つけることができた。レンタカー屋の受付には女性が4人いたが、1人だけものすごく不愛想な女がいて、少し気分を悪くした。女は受付にいて何をするでもなく、眉間にシワを寄せてムッツリしていて、客が入ってきても完全無視を決め込み、明らかに店内の雰囲気を悪くしていた。

 

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レンタカーに乗り込んだあとは、まずは善光寺へ向かうことにした。どこの駐車場に止めるべきか迷ったが、参道の外れにある、何となく馴染みのある名称のコインパーキングに停めることにした。

 

このコインパーキングは60分100円と、投げ遣りというか、何とも良心的な価格設定だった。ちなみに、東京銀座のコインパーキングの相場は15分でおおよそ500円だから、東京で同じような名前のコインパーキングに止めたら、20倍以上の料金を支払うことになるかもしれない。しかし、60分100円で儲けが出るのだろうか、税金対策だろうか、などと考えた。

 

かなり腹が減っていたので、参道に並んでいるそば屋で美味そうな店を探すことにした。あまりにも腹が減りすぎていて、長野から来ている患者さんに教えてもらっていたそば屋を探す気力はもはや皆無だった。

 

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参道は平日ゆえか、ガラガラだった。吉祥庵という縁起の良さそうな店があったので、ここに入ることにした。店内は昼時ゆえ満席だったが、店員の愛想も良く、店内の客がみな旨そうにそばをすすっていたので、しばし空席が出るまで待つことにした。

 

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結局、あまり待たずに、席に通された。とりあえず、日替わり定食を注文することにした。そば嫌いのこびとも同じものを頼んだ。5分ほどで美味そうなそばが運ばれてきた。

 

西日本の人間はそばよりもうどんを好む傾向にあるが、こびとも例にもれず、そばが嫌いだった。しかし、ここのそばは殊の外(ことのほか)美味く、こびとはそばが好きになったようだった。

 

東京のそばと言えば江戸時代から続く藪(やぶ)、更科(さらしな)、砂場(すなば)が有名だけれど、個人的には長野のそばが一番の好みだ。

 

以前、師匠と私と、師匠の知人で鍼灸師からミュージシャンに転向すると吹聴していた変人某氏と三人で、近所の某そば屋で昼飯を食ったことがあった。出雲蕎麦に馴染みのある師匠は、真っ白な更科蕎麦を見て開口一番、「こんな素麺みたいに白いのはそばじゃないでしょ!」と店主に聞こえるようなトーンで嫌みを込めて叫んだ。店主の顔は明らかに引きつっていたが、師匠は気にしていない様子であった。それから数年後、師匠が叫んだ影響かどうかはわからぬが、そのそば屋は閉店してしまった。

 

東京人からしてみれば、そばは本来、ツルツルと喉越が良く、小気味よく食べられるのがそばであって、出雲蕎麦のようにボソボソしたそばは、もはや蕎麦と言うより「そばがき」を食っているような感覚がある。

 

しかし、出雲人に言わせてみれば、東京のそばなんてのはそうめんみたいなもんであって、そばの香りがないそばなんてそばではない、ということらしい。

 

個人的にはその中間に位置し、喉越しの良さと香り高さを備えた信州そばが最高だ。島根だと、安来市にある「まつうら」というそば屋が信州風で美味しい。東京には無数のそば屋が存在するけれど、残念ながら、自分好みのそば屋は1つもない。

長野へ行った話1

 

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戸隠神社には、20年くらい前に1回だけ行った記憶がある。しかし、何故かその時のことはほとんど覚えていない。スノーモンキーのいる地獄谷野猿公苑には、2015年の11月に初めて行った。

 

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2016年の年賀状に使う猿の写真を撮るため、東京からミニカーに等しいVWルポで日帰りするという気違い染みた計画で、帰りはノーマルタイヤで予想外の降雪に遭い、地獄谷野猿公苑のあとに本当の地獄をみることになった。でもまぁ、あそこは中々面白い場所だった。

 

今回は、新幹線で長野へ行くことにした。長野市までは北陸新幹線を使うのが最も速くて楽だ。新幹線は1時間に2~3本出ていて、所要時間は片道約90分、料金は全席指定で8000円前後だ。池袋駅や新宿バスタ、東京駅八重洲口からも、長野駅行きの高速バスが1日10本前後出ているらしい。所要時間はおおよそ4~6時間前後だが、片道料金は1500~2500円くらいだ。時間や体力に余裕がある人、バス好きな人には良いかもしれない。

 

高速バスには2回だけ乗ったことがある。2回とも島根にいた時で、1回目は派手な車体色で躍進した某社が、松江-東京間の運行を開始して間もない頃、松江から東京まで乗った。

 

松江駅を20時頃に出発して翌朝7時すぎに東京駅に着く、というスタイルは今と変わらないが、当時は運転手が不愛想な上に、休憩が1回だけで、シート間も狭く、ノッポが11時間も車内で過ごすにはあまりにも過酷であった。

 

しかも、休憩は中間地点にある多賀あたりかと思いきや、島根県からほど近い岡山県蒜山SAのみだった。その後1回、深夜にどこかのSAに入ったものの、乗客は降ろしてもらえず、運転手がタバコ休憩するだけ、という素晴らしい運行スケジュールだった。

 

八雲町に住む患者のTさんが「東京行くなら夜行バスがいいけん」と、たまに来院するたびに耳が痛くなりそうなほどしつこく言うもんだから、話のタネにと興味本位で1回だけ乗ってみたのだった。

 

エコノミークラス症候群は座りだしてから、6時間くらいで起こりやすいと言われている。運が悪ければ、東京に辿り着く前に肺塞栓で彼岸に旅立っていたかもしれないと考えると、恐ろしい。ちなみに、現在は運行スケジュールが改善されたようだ。

 

高速バス体験の2回目は、神の名を冠した松江発の夜行バスだった。前回同様、同じルートで東京へ向かったわけだが、最後部の座席を選んだせいで、ほぼ真下にあるエンジンの振動と騒音で乗車開始直後から気分が悪くなり、11時間あまり、ささやかなる地獄をみた。初回のバス会社に比べてサービスは良かったけれど、それ以来、高速バスには乗っていない。

 

 

ある夏の日の晩餐(後)

穂掛祭は曜日に関わらず、毎年8月28日に行われている。東出雲に隣接する、中海の神石である「一つ石」から揖夜(いや)神社まで、約1kmの陸路を、舟で往来する神事だ。日本の沿岸部では、豊漁を祈願した、舟を使う神事がよく見られるが、実際にこういった祭りを見るのは初めてだった。

 

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北京堂発祥ハウスから揖夜神社までは、揖屋駅の上にかかる歩道橋を渡り、そこからさらに10分ほど歩かねばならなかった。お父さんは80歳を超えているにも関わらず、毎日しんぶん赤旗をせっせと配っていたゆえか健脚で、ついていくのが大変だった。

 

 

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歩道橋を渡って少し歩くと、中海から商店街に舟が戻ってきているのが見えた。船の底には車輪が付いていて、それを山車のように数人のオッサンが曳(ひ)いていた。舟は数種あり、子供が乗り、お囃子(はやし)をしている船もあった。

 

 

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荷台に、ねぶた祭で使うような灯籠や提灯を載せて、のんびり走っている軽トラもあった。

 

 

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松江市にはこんなに人がおったんか、というくらいの人出で、立ち止まって写真を撮るのに一苦労だった。私が「出店(でみせ)が沢山並んでますね」と言うと、お父さんは、「昔は出店がもっと沢山ありました。〇〇から来ているテキヤも多く、〇〇もありました」と、地元民しか知らないような衝撃的なネタをサラリと語った。都会に比べて娯楽の少ない地域であるから、地元民にとっては今も重要なイベントの1つになっているのであろうな、と想像した。

 

 

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結局、揖夜神社に来てみたものの、すでに神楽や安来節などの演目は終わっていたようだった。とりあえず、揖夜神社の由来が書かれた看板を眺めることにした。どうやら、揖夜神社は揖屋ではなく揖夜と書くらしい、ということをここで知った。出雲大社と同様、大社造のようだった。

 

 

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揖夜神社の創建については不明だが、日本書紀出雲国風土記延喜式神明帳などに、揖夜神社と思しき記載があり、平安期より前には存在していたらしい。また、三代實録には、清和天皇貞観十三年に、正五位下の御神階を賜ったとの記載があるそうだ。

 

特に神社で見るべきものがなかったので、北京堂発祥ハウスへ戻ることにした。実際には「戻ることにした」というより、我々はお父さんの後ろを、お父さんの意思に従って、お父さんの行きたい方向に歩いていただけだった。祭りのメイン通りから離れると人がまばらで、まさに田舎の商店街、という雰囲気が露骨に感じられた。

 

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お父さんは往路よりもゆったりと歩きながら、時々立ち止まっては、観光ガイドのように建物の歴史などを語った。くみたけ百貨店は親戚が経営しているそうだ。現在は、近くにコンビニやイオンが進出したためか、大そう哀愁漂う感じだったけれど、半世紀くらい前は、本当に百貨店のような存在だったのかもしれない。

 

しかし、組嶽とは珍しい苗字だ。店頭には祭りを眺めるためと思しき椅子が、2つ置かれていた。そういえば以前、お母さんが、「周はこの時期になると必ずこっちへ帰ってきて、友達とお酒を飲みながらお祭りを眺めるのが好きなのよ」と、言っていたことがあった。きっと師匠は、くみたけ百貨店の前の椅子に座っていたのかもしれないな、と想像した。

 

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くみたけ百貨店のすぐ近くには、越野とうふ店があった。お母さんはここの天ぷらが大好きだった。私が松江の北京堂にいた頃は、お母さんは出来立ての越野の天ぷらを買い、定期的に持って来てくれた。ちなみに、アルコールで脳が委縮していたためかどうかは今となってはわからないが、お母さんは毎回、「東京の人はこういうものを食べたことがないでしょう」と言っていた。慈悲深い私はその都度、「はい、食べたことがありません」と答え、天ぷらを受け取らねばならなかった。

 

松江には他のメーカーの天ぷらもあったけれど、やはり越野のモノが一番美味かった。松江では、天ぷらよりもあごの野焼きが有名だけれど、私は越野の天ぷらの方が好きだった。ちなみに、松江で言う天ぷらとは、魚のすり身を挙げた薩摩揚げみたいなモノのことだ。

 

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しばらく歩くと、揖屋駅を示す看板の手前に、「いやタクシー」と書かれた看板が見えた。「揖屋タクシー」と書くと読めない人が多いから、あえて平仮名の屋号にしたのであろうが、どうもタクシーを毛嫌いしている個人が掲げている看板のようにしか見えなかった。かつて、B級雑誌として一世を風靡したGON!が生き残っていたら、微妙な看板として、雑誌に掲載されていたかもしれない。

 

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商店街を抜けると、右手にローソンが見えた。まだ開店して間もない雰囲気で、物珍しそうに中を伺う地元民で賑わっていた。

 

さらに先へ行くと、「三菱農機」と記された看板が見えた。ここから先は三菱農機の工場地帯らしかった。東出雲と言えば、農業機械のパイオニアとされる三菱農機が最も有名かもしれない。三菱農機の全盛期は、町内にはもっと活気があったらしい。

 

お父さんは我々の前を歩きながら、「東出雲町松江市との合併を頑(かたく)なに拒んでいたのは、三菱農機に勢いがあったからです」と、出雲訛りの標準語で言った。

 

私とこびとは、東出雲にこんな大きな工場があったんか、と驚きつつ、お父さんと最初で最後の夜のお散歩を終えることにした。別れ際、お父さんが、「明日、一緒に黄泉比良坂(よもつひらさか)へ行きませんか」と言った。私は、黄泉への入口とされる黄泉比良坂には以前から行ってみたいと思っていたため、快諾した。

 

ある夏の日の晩餐(前)

2013年の8月28日は、今でも昨日のことのように覚えている。

 

私は松江での3年余りの任期を終え、9月からは師匠がいる三鷹の北京堂を引き継ぐため、東京へ戻ることになっていた。

 

私が島根を離れることを知った師匠のお父さんは、「8月28日に東出雲の祭りがありますが、ウチで一緒に夕飯を食べませんか?」と言った。実は、それ以前にも、武内神社の夜通しの祭りを見に来ないかと何度か誘われていた。しかし、鍼灸院の都合で止むを得ず断っていた。

 

何故か、今回は最期の機会になるかもしれないな、という思いが脳裏をよぎった。それゆえ、断らないことにした。独りで行くのも何だか侘(わび)しい気がしたので、「こびとを連れて行っても良いですか?」と聞くと、お父さんは「どうぞ、どうぞ」と言った。東出雲の祭りは穂掛祭と言い、毎年行われる、揖夜神社の神事らしかった。

 

この日は水曜日で、仕事を終えてからバイクで東出雲へ向かった。松江の学園通りから東出雲までは、バイクで10分くらいだ。すでに日が暮れかけ、周囲は薄暗くなっていた。

 

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師匠の実家は9号線沿いにある。9号線は出雲から松江、米子をつなぐ山陰の大動脈だから、比較的車の往来が激しい。それゆえ、車で行くと駐車場の出入りが難儀なので、バイクで行くことにしたのだった。何とか、19時前に到着した。

 

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とりあえず、島根を離れる前に、記念として北京堂発祥ハウスの外観を撮っておくことにした。

 

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ボタンだけのインターホンを押し、見慣れた引き戸を開けると、待ってましたとばかりに、お母さんが出迎えてくれた。

 

股関節をかばうように、肩を左右に大きく揺らして歩くお母さんについてゆくと、8畳の和室に通された。部屋の真ん中には、こげ茶色の四角い座卓があり、左右に座布団が2つずつ敷いてあった。

 

こびととお母さんは初対面だった。私がお母さんにこびとを紹介すると、お母さんは何の脈絡も無く、「あら!あなたバレーボールやってるの!」と叫んだ。こびととバレーボールを結びつけるような情報は一切見当たらなかったが、どうやらお母さんは、こびとがバレーボールの選手か何かであると思い込んだ様子だった。お母さんはビールが好きで毎日飲んでいるとのことだったから、アルコールによって側頭葉が委縮し幻覚が見えているのではなかろうか、と想像した。

 

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我々が返答に困っていると、お母さんはおもむろに窓を開け、庭の植木に水をやり始めた。もはや、こびとがバレーボールをやっているか否かはどうでも良い様子であった。

 

 

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お母さんが水やりをしている間、かつて、師匠が治療部屋に使っていた部屋を覗いてみることにした。お父さんは私を信用していたから、普段から、治療部屋は自由に見て良いと言ってくれていた。そういえば、東京にいた師匠から、「〇〇の本を探して送って」と頼まれたことがあったが、本が多すぎて探すのが大変だった。

 

北京堂が松江の学園通りに移って以来、ここは徐々に物置部屋に変わっていったようだった。本棚には、師匠が中国でコツコツと買い集めた、中医関係の本がギッシリと並べられていた。どれも、今では絶版になった貴重なモノばかりだった。鴨居の上には、青い箱に入った、特注の4寸鍼が無造作に並べられていた。

 

私が弟子入りして間もない頃、師匠は「実家には鍼灸湯液の本が1000冊以上あるだろうなぁ」と呟いていたことがあったが、確かにそれくらいはありそうだった。30年前の中医書は紙質が悪く、古いペーパーバックのようで、貧しかった中国を垣間見た気がした。

 

しばらく本棚を眺めたあと、客間へ戻ることにした。座布団に座り、窓越しにお母さんを眺めていると、お父さんが急須と湯呑をお盆に載せて、客間に入ってきた。湯呑に注がれたお茶をすするや否や、お父さんが、「風呂を沸かしてありますから、先にお風呂に入ってください」と言った。今の東京では考えられないことだが、これが田舎における、客人のもてなし方なのであろうな、と想像した。

 

風呂場は昭和を感じさせる作りで、正方形の水色の風呂釜の横に、小さなスノコが置いてあるだけだった。シャンプーやリンス、コンディショナーなどは無く、固形石鹸が1つ置いてあるだけだった。とりあえず、シャワーで体を流し、湯船に浸かった。

 

風呂の北側には小さな窓が付いていて、窓の外には青々と密生した稲穂が、その向こう側には山陰本線の線路が見えた。湯船に浸かってしばらくすると、ガタンゴトンと、電車が通り過ぎる音が聞こえた。平和なひと時だった。そういえば、お父さんとお母さんは、山陰本線のことを電車とは言わず、汽車と言っていたな、と思い出した。

 

風呂から上がり、脱衣所に用意してあったタオルで体を拭いた。風呂に入る前に、予めドライヤーが無いことを確認していたから、頭は洗わなかった。以前、僻地にある温泉へ行ったとき、脱衣所にあると思い込んでいたドライヤーが無くて、後悔したことがあった。それ以来、自宅以外で風呂に入るときは、必ずドライヤーの有無を確認してから、頭を洗うかどうかを決めることにしていた。

 

 

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少しスッキリした気分で客間へ戻ると、座卓には料理が並べられていた。お母さんは私を見て、「今、お父さんが魚を焼いていますから、座っていて下さい」と言った。

 

お母さんとこびとと与太話をしながら10分ほど待っていると、お父さんがニコニコしながら、焼いたばかりの魚を運んできた。お母さんは、「お父さんは魚を焼くのが上手なのよ」と言った。

 

私が、「鯛と鮎なんて、東京じゃ滅多に食べられませんよ」と言うと、お母さんは、「あら、そうなの」と笑みを浮かべながら興味深そうに言った。

 

 

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島根にいた頃は境港が近いせいもあり、美味い寿司は散々食べた。しかし、お父さんが買ってきてくれた五右衛門鮓の鯖寿司は、一度も食べたことがなかった。お父さんは、「米子に本店があってね。中々美味しい寿司ですよ」と言った。お父さんは、さりげなく、五右衛門鮓の小冊子を置いてくれていた。確かに、これは美味かった。

 

一方、お父さんが焼いた鯛と鮎は焼くのが上手と言うわりに、少し生焼けのような気がした。しかし、心優しい私は、「美味しいですね」と連呼しながら食べた。

 

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島根に来て間もない頃、そもそも師匠が何故に鍼灸の道を選んだのかを、お母さんに問うたことがあった。当時、師匠は東京の大学に進学し、桜上水に住んでいた。しかし、甲州街道近辺を漂う排気ガスの影響か、呼吸器を悪くし、一時的に島根に戻ることになった。ある日、家族でテレビを見ていた時、ドキュメンタリー番組か何かで、中医が西医に見放された患者を針灸で治す、というシーンが放映された。

 

で、これを見ていた師匠は「おかあちゃん!これからは針灸の時代だよ!僕は針灸学校に行く!」と言ったそうだ。要するに、お母さん曰く、師匠が鍼灸の道に入ったきっかけは、テレビ番組だった。どこまでが本当の話なのかはわからなかったけれど、師匠の昔話となると、お母さんは大そう嬉しそうに語ったものだった。この日もお母さんは、何度も聞いたことがある師匠の昔話を、延々と語り続けた。

 

食事が終わり、デザートにブドウが出てきたが、さすがに食べきれなかった。すでに、20時30分を過ぎ、外は真っ暗だった。私が何気なく時計を見やると、お母さんが、「あなた達、せっかくだからお祭りに行って来たら。東京の人は田舎のお祭りを見たことが無いでしょう」と言った。

 

すると、お父さんが間、髪を入れず、「私が案内しましょう」と言った。お母さんは股関節が悪いせいか、室内を歩くのもしんどい様子で、「私は家にいますから」と言った。結局、これが、お母さんとの最期の会話になった。