東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

新聞奨学生時代の思い出(5)

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新聞販売店はその名の通り、基本的には新聞販売による収入がメインとなっていたが、実際には新聞に挟む折込チラシの売り上げが、大きな収入源となっていたようだった。記憶は定かではないが、1枚あたり3円くらいだったと思う。

 

売店での総配達部数は5000部くらいだったが、3000部前後のチラシを販売店に持ち込むクライアントが多く、チラシの内容によって高級住宅街や新興住宅街、旧市街地などへと、分けて配達するよう指示が出ることが多かった。 

 

チラシは配達日の1週間ほど前までに販売店に持ち込まれ、我々が朝刊の配達を終えた後、朝の9時~15時頃まで、パートのオバちゃんたちが、機械でガシャガシャと音を立てながら、ブロックになった数個~40個あまりのチラシの塊を、1枚ずつにバラして組み合わせる、という作業を延々と続けるのがお決まりだった。 

 

その後、配達区域ごとに分けられたチラシを、我々が深夜1時頃に運ばれてくる出来立てホヤホヤの新聞に1部ずつ手で挟み込み、新聞配達専用モデルの屈強なプレスカブが、うめき声を上げるくらいの量の新聞を前かごと荷台に積み込み、毎日マラソン大会に参加しているような気持ちで配達に出かけるのだった。 

 

配達時に雨が降りそうだったり、すでに雨が降っていれば、ジョイナーと呼ばれる専用のラッピングマシーンで、新聞を1部ずつラッピングしなければならなかった。400部あまりの新聞をすべてラッピングするとなると、ラッピング作業だけで軽く30分以上は時間が余計に取られた。

 

さらに、ラッピングのビニールによって新聞同士の摩擦抵抗が減り、積載時に滑りやすくなるため、新聞とチラシの厚みが増せば増すほど、1度に荷台に積める新聞の量が減り、積み込み作業が増えて、配達時間が1~2時間程度遅れてしまうのが常だった。 

 

新聞のページ数が30ページ以上、挟み込むチラシが30枚以上になることが多い週末に、土砂降りの雨が降るのは最悪のケースで、通常6時前に配達が終わる区域でも、8時近くまで配達していることもままあった。それゆえ、金曜日か土曜日ばかりを狙って、休み希望を出す配達員が少なくなかった。

 

各区域ごとに順路帳と呼ばれる、購読契約者の住所と氏名が記された台帳があって、配達者は基本的にこの順路帳に記されている顧客順で配達しなければならなかった。順路帳には顧客の個人情報の他に、「5時必着(朝5時までの配達厳守、の意)」とか、「遅れ即止(配達遅れたら即解約される、の意)」など、各顧客ごとの注意事項も記されていて、常に時間を気にしながら配達しなければならなかった。

 

毎日、鍼灸学校夜間部の授業を終えて帰宅すると、いつも22時を過ぎていた。その後、2~3時間ほど仮眠して、深夜の1時すぎに起床して、新聞を配達するのが常だった。

 

まだひっそりと寝静まっているマンションを出て、長距離トラックやタクシーばかりが無味乾燥に行き交う、深夜の国道横の駐車場に停めておいたカブにまたがり、空を見上げ、間もなく雨が降りそうな雲行きに見えたり、雨が降る前特有のアスファルトの臭いがすると、とにかく気分が沈んで、恵まれぬ境遇に嫌気がさしたものだった。 

新聞奨学生時代の思い出(4)

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新聞屋にとって、1年で最も団結力が高まるのは、元旦までの1週間だった。元旦の新聞は1年の始まりということもあり、毎年、新聞社の威信をかけた豪華版となるのが通例だった。それゆえ、所長や店長からは、不吉であるから元旦だけは不着、誤配をしてくれるなと、耳が痛くなるほど聞かされていた。

 

通常、新聞は月曜日が最も薄く、週末に近づくほど厚くなる。それでも、紙面のページ数は30ページほど、チラシは多くても20枚ほどだった。しかし、元旦は紙面もチラシもその数倍の量に跳ね上がるから、1週間前からパートのおばちゃんたちが、顧客から持ち込まれた各種チラシを機械でバラして組み直し、1セットずつに仕上げた分を、販売店の隅に積み上げてゆくのだった。

 

このチラシをただでさえ分厚い元旦の新聞に挟み込むと、週刊誌以上の厚さになり、ポストに投函できなくなる。したがって我々配達員は、「賀正」と印字された取っ手付きの専用のビニール袋に、新聞とチラシを1部ずつ入れて配達することになるわけだが、ポストには入りきらない巨大さゆえ、1週間前から、ポスト以外の置き場所を調査したり、平時よりも転送場所を増やして、どこに何部くらい転送すれば効率的に配達できるかを事前に相談し合うことになっていた。

 

元旦の配達はとにかく大変だった。しかし、大半の顧客は新聞がいつもよりも遅れて届くことを承知していたから、精神的には楽だった。

 

通常、朝刊の配達は深夜2時頃に開始して、朝6時前には終わるのだが、元旦の新聞は平時の10倍くらいの厚みがあったため、約400部を全て配り終わる頃には、8時をとうに回っていた。

 

配達が終わって販売店に戻ると、ニコニコしながら待っていた所長が、「はい、お疲れさま」と言って、5000円が入ったポチ袋を1人1人に手渡し、所長の奥さんが作ってくれたおせちらしからぬ、おせちらしき料理を食べるのが恒例になっていた。何故か、カレーは、元旦のテッパンメニューだった。

 

当時、新聞屋に集まる人々は、その多くが社会からはみ出したり、恵まれない生活環境で育ってきたような、独身男ばかりだった。

 

それゆえ、所長の奥さんがふるまう凡庸な手料理であっても、とても温かみが感じられ、元旦の販売店の中は、いつものピリピリ感が皆無な、和やかな空間に変化するのだった。

 

1年で最も大変な朝刊配達を、全員で協力して無事終えることができた安堵感や、1年で唯一の完全なる新聞休刊日を翌日に控えた嬉しさなどから、みな独特の和やかさを醸し出していて、毎日お世話になっているコンビニ弁当には目もくれず、大そう幸せそうに、おせち料理をほおばるのだった。

 

所長が箱買いしてきた缶ビールや缶ジュースは飲み放題だったから、食後、ジャンバーのポケットに缶を何本も詰め込んで、そそくさと帰る配達員も数人存在した。

新聞奨学生時代の思い出(3)

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不着、誤配をほとんどしない優秀な配達員は、しばらく経つと、どの区域にも属さない「代配者」として、配達を任されるようになる。つまり、ある区域の担当者が休んだり、欠員が出るたび、その区域の配達を代わりに請け負う、フリーランスのような配達員に昇格する。

 

「代配者」にもランクがあり、数区域のみの代配から、最終的には全区域代配可能なレベルへと、順次アップして行く仕組みだった。

 

その当時、私が所属していた販売店の総契約件数は、約5000件であった。最上位の「代配者」になると、約5000件の顧客の位置関係が常時、頭の中にインプットされていた。

 

取扱っていた新聞は十数銘柄あり、朝日、日経、日刊スポーツ、デイリースポーツなどの主要紙以外に、株式新聞や流通新聞、金融新聞、つり新聞、小学生新聞、中学生新聞などの専門紙も配達していたが、優秀な「代配者」は、各戸のポストの形状や場所、契約している新聞の種類、何時頃に新聞が抜かれるかなど、全て暗記していた。

 

まだナビゲーションシステムが普及していない頃、ロンドンの優秀なタクシー運転手は、空間把握を司る海馬が発達していた、という話を聞いたことがあるが、おそらく、かつての新聞配達員も、海馬が発達していたのだろうと思う。ちなみに「代配者」になると、特別手当として約2万円が、毎月別途支給された。

 

「代配者」になってしばらく経つと、「転送者」と呼ばれる地位にランクアップすることができた。「転送者」とは、いわゆる配達責任者のことで、主な仕事は現場の管理と「転送」だった。

 

当時、私が所属していた新聞販売店は、某沿岸市内全域を配達区域としていた。販売店に最も近い区域は第1区、販売店から最も遠い区域は第14区と呼ばれていた。数字が大きくなるほど、販売店からの距離が遠くなる、という区分だった。

 

週末になると新聞やチラシの厚みが増すため、1度にバイクに積める新聞の量が少なくなる。それゆえ朝刊配達時は、通常2~3回は販売店に戻り、新たに新聞を積んで配達に出なければならなかった。

 

第1区や第2区であれば、常に販売店の周囲を配達しているから、たとえ販売店に新聞を取りに戻ったとしても、ロスタイムはほとんど無い。しかし、第13区や第14区になると、配達地点から販売店まで往復10キロ以上あるため、販売店まで新聞を取りに戻るとなると、相当なロスタイムが発生してしまう。

 

また、1区域の配達件数は平均350件程度で、そのうち50件くらいは時間指定があったから、少しでもロスタイムを減らすため、予めその区域ごとに転送場所を2~3ヶ所設け、新聞を「転送」してもらう必要があった。

 

つまり「転送者」は、配達員が1回で積み込めなかった、配るべき残りの新聞を、配達員がその転送場所に辿り着く前に先回りして、置いておくのが主な仕事だった。したがって、「転送者」は全ての配達区域に精通している、「代配者」以上のレベルでないと務まらなかった。

 

基本的に配達業務には、新聞配達専用に開発された50ccのホンダ製プレスカブか、ヤマハ製メイトが使われていた。しかし、50ccのヤマハ製メイトは2ストロークゆえ、マフラー内部の灰の除去を定期的に行わねばならぬなど、メンテナンス性が劣っていたため、最終的にはプレスカブ一色になった。

 

プレスカブはビルの5階から落としても、エンジンオイルの代わりに食用油を投入しても走り続けると言われたほど頑丈に作られていたため、東南アジアでは爆発的な人気を誇っていた。それゆえ沿岸区域の新聞販売店では、窃盗団によるプレスカブの盗難が相次いでおり、新車のプレスカブを与えられた配達員は、カブが盗難されて東南アジアに売り飛ばされぬよう、ヒヤヒヤしながら運転しなければならなかった。

 

その後、4ストになったタウンメイト90が発売されると、最も巡行距離数が多い第14区のために、高価なタウンメイト90が、1台だけ配備されることになった。

 

当時、中型免許を所持していたのは「転送者」に昇格した私と、第14区担当のMさんだけで、発売されて間もないタウンメイト90に乗ることができたのは、我々2人だけだった。

 

我々は嬉しさのあまり、用もないのに社用のバイクを乗り回すことになってしまったわけだが、誰もいない明け方の海岸沿いを、出来立てホヤホヤのタウンメイト90で走り抜けた爽快さは、今でも忘れられない。

新聞奨学生時代の思い出(2)

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通常、朝刊の配達は深夜1時30分~朝6時まで、夕刊の配達は14~16時までだった。他には月に2回くらい、朝6~9時までの電話当番があった。

 

電話当番は、朝刊配達完了後から事務員が出勤してくる朝9時まで、新聞販売店内に設置された電話の前に、ボーっと座っているだけで良かった。しかし、運が悪い日は、不着(新聞が入っていない)や、誤配(違う新聞が入っていた)の電話がバンバンかかって来るため、3時間の電話番はあっという間だった。

 

Aコースの奨学生は、毎日約6時間の配達業務に加え、集金業務として月末25日~翌月10日まで、30時間ほど多く働かなければならなかった。 Bコースの奨学生は、基本的には朝夕刊の配達のみだったから、毎日の労働時間は6時間前後で済んだ。

 

しかし、実際には配達区域によって、労働時間および労働量に大きな格差があった。例えば、2~5階建ての、エレベーターおよびオートロックがないアパートやマンション、県営住宅が密集しているような区域では、朝刊時は上階まで新聞を運ぶのが鉄則で、酷暑や雨の日が続くと、逃げ出したくなるほどキツかった。

 

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また、配達部数もピンキリで、楽な区域だと朝夕刊合わせて300部程度、最もキツい区域だと朝夕刊合わせて600部超えで、2時間程度の余分な労働を強いられた。

 

ちなみにこの時、法律上、5階建てまでのマンションにはエレベーターを設置しなくても良い、ということを知った。

 

新聞奨学生を無事卒業することができる学生がいる一方で、「追わないでください」と記された謎のメモをちゃぶ台の上に残して夜逃げする学生が少なからず存在したため、突如として、担当区域が変更になることがあった。

 

私は配達が速い上に誤配、不着する件数が少なかったためか、いつもキツい区域ばかりを担当させられた。それゆえ、配達中、いつも頭の中には、「早く辞めたい、早く辞めたい」というネガティブワードが延々とこだましていた。とにかく、毎日のルーティンワークと学校の宿題をこなすことだけで、あっという間に1日が過ぎ去ってゆく日々だった。

 

新聞は毎日刷られるモノであるから、当然ながら、毎日交代で誰かが新聞を配達しなければならなかった。しかし、1年で1日だけ、1月2日だけは朝刊も、夕刊も、配達しなくて良かった。

 

新聞業界には「新聞休刊日」という、各新聞社同士で予め取り決められた、新聞配達員の慰労デーみたいな日が、年間約12日あった。

 

「新聞休刊日」は毎月第2月曜日だったが、1月2日以外は夕刊の配達が必須だったから、全く心が休まらなかった。

 

槍が降ろうが、大雪の翌日で路面がガチガチに凍結していようが、朝晩いづれかの配達業務は毎日必須だった。それゆえ、1年で唯一ホッとできる日は、元旦の朝刊を配り終えたあとの、約1日半だけだった。

新聞奨学生時代の思い出(1)

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もう20年ほど前の話だ。

 

その頃は鍼灸学校の学費を稼ぐため、新聞奨学生をしていた。鍼灸学校は夜間部であったから、夕刊を配達したのち、休む間もなくバイクに乗り、日本一交通量が多いと言われていた某国道を、忙(せわ)しく往復する毎日だった。

 

当時、新聞業界はまだ活気があり、新聞奨学生の待遇もそれなりに良かった。新聞奨学制度は朝日、読売、毎日、日経など各社に存在したが、最も待遇が良かったのは朝日と読売だった。

 

もちろん、奨学金自体は新聞社の本社から支給されるから、奨学金自体に大差はなかったけれど、お世話になる販売店によって食事補助や住宅補助があったから、儲かっている販売店に所属すれば、経済面ではほぼ心配なく、学生生活を送ることができるようになっていた。

 

通常、新聞奨学生は、販売店2階の粗末な部屋を与えられることが多い。しかし、私がお世話になった販売店の店長は、いわゆる苦学生への支援に力を注いる熱血漢で、販売店の上では喧しくて学業に支障が出るであろうと、閑静な住宅街にある家賃75000円のマンションのワンルームを無償で提供してくれた。

 

パソコンが普及し、インターネットが隆盛を迎えるまで、新聞はテレビと同様、貴重な情報源の1つであり、2000年前後は新聞社が最も潤っていた時代だった。それゆえ、経済的に恵まれない家庭環境にあっても、新聞社にパトロンになってもらうことで、新聞奨学生は無事学校に通うことができた。

 

昨今は偏向報道やらオシガミ問題やらで新聞屋は叩かれているけれど、貧しい若者にとって新聞奨学制度は、地獄から這い上がるための、いわば1本の蜘蛛の糸のような存在であった。

  

新聞奨学制度には2種類のコースがあった。1つは朝夕刊の配達+月末の集金業務が必須のAコース、もう1つは朝夕刊の配達のみでOKBコースだった。

 

Aコースは主に4年制の私立大学への入学を希望する学生向けで、約380万円の奨学金と住居補助、毎月約10万円の生活費に数万円程度の集金手当が上乗せされて、支給された。

 

一方、Bコースは主に短期大学や専門学校への入学を希望する学生向けで、約315万円の奨学金と住居補助、毎月約10万円の生活費が支給された。

 

当然ながら、どちらのコースも、学校を中途で留年または退学した場合は、奨学金をすべて返還しなければならない契約だった。それゆえ、無事に卒業するまでは、奨学金はあくまで貸与であったから、卒業までの生活は経済面では安心感があったけれど、精神面・肉体面においては決して楽とは言えなかった。 

 

2016年、上海へ行った時の話(番外編)

2016年夏、中国へ出向している友人に招かれて、初めて上海へ行った。

 

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ついでに、LCCに乗ってみようということで、春秋航空のチケットをゲットし、カラフルなゴミ箱が設置してある茨城空港から、片道8000円で上海へ飛ぶことにした。

 

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上海で最も楽しみにしていたのはマグレブ(磁浮)に乗ることだった。マグレブは2006年に開業したものの、用地買収がままならず、運行距離はたったの30kmだった。

 

マグレブはドイツで開発されたTR08がベースになっており、車体は磁力で浮上、無摩擦、無接触だから、既存の高速列車に比べて、耐久年数は長いと聞いていた。

 

しかし、実際に乗車してみると、10年以上経過した車体は明らかにガタがきているように感じられた。動力は未だ衰えが見えぬようで、発射後わずか数分で最高時速430kmに達したものの、内心では大丈夫かいなと不安になった。

 

通常の列車の線路の耐久年数は60年程度だが、マグレブの場合は80年程度だそうだ。何より、騒音が少なく、排気ガスも出ないのが一番のメリットであるが、消費電力や電磁波の問題が密かに取り沙汰されていたのは、日本のリニアモーターカーと同じだった。

 

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中国ではマグレブの欠点として、停電時の減速性能の低さが指摘されている。

 

車輪のある乗り物は、タイヤのグリップ力や車輪、ブレーキパッドなどの摩擦抵抗で急減速することが可能になるわけだが、マグレブには車輪自体がないため、急制動しようにも、高速度運行による慣性の法則が強く影響して、止まるという点に関しては劣る。

 

そうは言っても、ドイツでは1980年代に、時速400kmを超える磁気浮上型の列車を開発しているのだからすごい。まだVWゴルフⅡが発売されて間もない頃の話だ。

 

TR08は設計上、時速500kmで走行可能らしいが、中国ではTR08の独自改良版で、時速600km超を目指しているそうだ。

 

ちなみに中国では現在、アメリカ人が考え出したハイパーループをパクったような「高速飞行列车」と呼ばれる次世代高速鉄道の研究を開始しており、最高時速1000kmから段階的に速度を上げ、最終的には時速4000kmでの運行を目指しているらしい。北京から武漢まではおおよそ1200km(青森市から岡山市くらい)だから、時速4000kmで走り続けることができたら、計算上は18分で北京から武漢に到着する。

 

半世紀前までは、中国国民の主な移動手段と言えば徒歩か自転車のみであったが、たった数十年でここまで発展したのは俄(にわ)かには信じがたい。鶴の一声で物事が進みやすくなるのは、独裁政権のメリットの1つだろう。飞铁と呼ばれる超级高铁が、実際にスーパーシティ同士をつなぎ合わせるのも、もはや時間の問題かもしれない。

  

中国で最も発展している都市と言えば、出稼ぎ労働者があふれていた深圳だけれども、現在の深圳は東京人がカッペに思えるくらい、激しく発展しているそうだ。まぁ、5Gによる超監視社会は恐ろしいけれど、どんな感じなのか実際に見てみたい。

 

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中国は急速な発展を遂げる一方で、街中に未だ怪しい面影を残している。例えば、上海人民公園の地下にある某ショッピングモールには、新宿国際造型という怪しげな屋号の美容院があった。

 

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最近はこのような美容院以外にも、日式(日本風のサービス)を提供するという触れ込みの店が数多存在するから、何だかんだで反日報道はあっても、日本好きな中国人は少なくないのだろうと思う。

 

ちなみに、この新宿国際造型では、日本式カラー(日式染发)は399元(約6,800円)、日本式パーマ(日式烫发)399元は(約6,800円)、シャンプーブロー(洗吹)は39元(約670円)と、中国の物価を鑑みれば相当に高額であった。実際、本当に日本式なのかどうかはわからない。

 

しかし、何故にこの美容院は、新宿という屋号を選んだのだろう。

 

そういえば、ある中国人が東京に住み始めて間もない頃、「新宿駅があるなら古宿駅もあるのか?」と言っていたが、やはり「新天地」と呼ばれるデパートに馴染みのある中国人にとって、「新」が付く地名はおニューな感じというか、イカす感じがするのかもしれない。

 

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そんなことやあんなことを考えつつ、店頭右側の看板を見やると、明治人のようでよく見るとそうでもないような、職業不詳の日本人らしき中年カップルが描かれていることに気が付いた。髭男は左手に何か持っていたが、それが手裏剣なのか、藁人形なのか、ハサミなのか、私のIQでは判別がつかなかった。この絵のどのあたりが「しんじゅく」なのかは、全くもって理解不能であった。

 

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そういえば、某駅の近くには、機関車トーマスをパクったような乗り物があったので、記念に写真を撮っておいた。

門脇尚平先生と木枕

手相といえば、20代初めの頃、イロイロあって路頭に迷っていた時期に、手相の大家であられた門脇尚平先生に、下北沢のご自宅で鑑定していただいたことがあった。

 

先生は「手相の世界では、本は書けても実際に観れる人はほとんどいないでしょ。私は書けるし観るのも巧い」と言った。確かに中医の世界でも似たような状況みたいだが、日本では書けぬし治せぬ鍼灸師が多すぎるように思えてならぬ。 
 
門脇先生に手相を観てもらった時、私は確か20歳くらいで、生産性も将来性も微塵もないようなクズみたいな人間だった。

 

ご自宅は下北沢駅から5分くらい歩いた住宅街にあって、インターホンを押すと気さくな感じで門脇先生がお出迎えになり、玄関左脇の居間に通された。10畳くらいの部屋に小さなちゃぶ台と座布団が2枚敷いてあって、部屋の奥には西式健康法の平牀(へいしょう、≒木板)と硬枕(木枕)を置いたスペースがあった。

 

先生に促されて座布団に座ると、すぐに代金を請求された。3万円だった。先生は現ナマを手にするまで、会話をしない様子だった。随分高いと思ったが、門脇先生にお会い出来て感動していたし、鑑定内容に期待していたので、すぐに諭吉を3枚取り出した。ためらいながらも3万円を差し出すなんて、あの頃の私は今よりは遥かに純朴であったと思う。

 

鑑定時間は約30分で、奥様が出してくださった柿の葉茶を飲みながら、部屋の片隅に置かれた西式健康法の器具について話したりしたが、20分くらいは先生の自慢話を聞かされたように思う。先生は手相の鑑定にも関わらず、何故か手相についてはあまり詳しく語らなかった。

 

門脇先生の手は随分と手荒れが酷く、表皮が剥けてカサカサになっていたので、つい「どうしたんですか」と言ってしまったが、先生は「ちょっとね」と言って話をはぐらかした。先生は西式健康法で完全なる健康体になっていると思い込んでいたが、西式に問題があるのか、先生に問題があるのか、当時の私にはわからなかった。

 

先生はしばらく私の手相をジッとみていたが、「あなたはちょっと変わった人と結婚するね」とか「吉相、吉相」と大きな声で言うだけで、私が聞きたかった内容はあまり判然としなかった。しかし、「君は将来、多くの人の面倒をみることになるよ」と断言したことは、どうやら当たっていたらしい。

 

結局、先生が話した内容の大半は下ネタ的な自慢話ばかりで幻滅した。まぁ大体、巷の占い師の多くは、客が望んでいる答えを推量してうまいこと言うだけの、鏡台みたいなモノなのかもしれない。

 

とりあえず、鑑定の時間が終わる前に、一つだけ聞いておきたいことがあった。門脇先生は多くの著書を残されていたが、“手相はアリストテレスに始まって門脇尚平に終わる”、と自著で毎度のようにおっしゃっていた先生にとって、どの本が一番お勧めなのかということが知っておきたかった。

 

先生は座りながら電話の受話器を取ると、おもむろに内線ボタンを押して、2階にいる娘さんだかに「『手相への招待』まだあったっけ?」と聞いた。私はどの著書がお勧めなのかを知りたかっただけで、本を買って行くつもりはなかったが、先生は本を売りつける気満々のようであった。とりあえず、先生が勧める本が『手相への招待』であることがわかったのは収穫であった。

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鑑定の時間が終わると、先生は「手相の改善と健康のために、西式健康法をやりなさい。明日から朝食を廃止しなさい」と言いながら、私に帰宅を促した。私は透かさず、持参した先生の某著書を取り出し、サインをお願いし、先生のご自宅をあとにした。

 

こうして私が15年前に木枕の存在を知り、今、多くの患者に感謝されるような木枕の使用法を考え出すことが出来たのも、そもそもは門脇先生のおかげである。手相に関しての恩恵は少なかったけれども、西式の存在を教えて下さったことに関しては、門脇先生には大いに感謝している。

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そんなこんなで、京都から東京へ向かう新幹線の中で、デイパックの中に忍ばせていた携帯用の木枕を首にあてがいながら、若かりし頃の懐かしい日々を昨日のことのように思い出していた。

 

そういえば、最近、何人かの患者さんから携帯用の木枕を売ってくれと言われたのでメーカーに問い合わせてみたのだが、残念ながら携帯用は既に販売中止になっていた。以前はメーカーもバンバン作っていたらしいが、最近は需要がないのと職人が引退したとのことで、生産を中止せざるを得なくなったらしい。

 

木枕はしばらく使っていると旅行や出張にも携帯したいと思うようになるわけだが、うちの患者さんにもそんな感じの人がチラホラ現れてきたようだ。携帯用は折りたたむと通常の木枕の1/3くらいの大きさになるので、バッグに入れても邪魔にならず便利である。