東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

長野へ行った話2

東京駅発の北陸新幹線長野駅まで行き、長野駅東口にあるレンタカー屋でレンタカーを借りて、長野市内を徘徊することにした。

 

仕事の都合上、休暇がとれるのは最大でも3日程度なので、今回は長野市内で1泊することにした。そうなると、やはり長野駅近辺で泊まるのが便利だと考え、ホテルサンルート長野に予約を入れた。

 

東海道新幹線と同様、北陸新幹線にも「ぷらっとこだま」のような「新幹線+ホテル」のプランがある。基本的に旅は泊まる場所の貴賤よりも、巡る場所の方が重要だと考えているから、ロケーションや清掃具合が極端に悪くない限り、安いホテルでも構わない。中国の薄汚いホテルに何度も泊まったせいか、日本の質素なビジネスホテルで満足できるようになった。今回は往復の新幹線代とホテル1泊料金込みで、基本料金は1人あたり17,000円くらいだったが、追加料金を支払ってグリーン車にした。

 

最近、新幹線内で物騒な事件が増えているので、新幹線に乗る時は必ずグリーン車と決めている。これまで事件が起こっているのは、だいたいグリーン車以外の車両だ。そもそも、犯罪者がハイジャックするためにファーストクラスを予約したり、繁華街を暴走するために高級外車のレンタカーを予約する可能性は低い。

 

それゆえ、懐具合の許す限り、購入可能な安全はなるべく買うようにしている。例えば、バイク乗りが安全のために、スネル規格を超越したアライ規格をクリアしたヘルメットを買ったり、アウトバーンの長距離移動が日常化しているビジネスマンが安全のために、EURO NCAPのクラッシュテストでペシャンコになるような車を避けて最高評価のドイツ車を買うようなものだ。近年露呈し出した多くの偽装問題で明らかなように、日本の安全神話はとうに崩れ去ってしまっているから、お金が許す限り、買える安全で自衛するしかないと思っている。 

 

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東京9:00発のはくたかに乗った。北陸新幹線には初めて乗ったが、揺れも少なく静かで、シートも比較的快適だった。しかし、グリーン車なのにフットレストが装備されていないのはいかがなものか。

 

乗客の半数以上は外国人だった。軽井沢あたりから、遠足らしき小学生の集団が乗ってきた。長野駅で降りるらしく、出口で一緒に並ぶことになったが、私の前に立っていたジャイ子似かつBMIの高そうな女の子が、鼻〇ソをほじり出しては口に運ぶ、という不快な行為を繰り返していた。この先の日本は大丈夫だろうか、と不安になった。

 

長野駅に来たのは初めてだったが、Google Mapのおかげで、東口にあるレンタカー屋はすぐに見つけることができた。レンタカー屋の受付には女性が4人いたが、1人だけものすごく不愛想な女がいて、少し気分を悪くした。女は受付にいて何をするでもなく、眉間にシワを寄せてムッツリしていて、客が入ってきても完全無視を決め込み、明らかに店内の雰囲気を悪くしていた。

 

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レンタカーに乗り込んだあとは、まずは善光寺へ向かうことにした。どこの駐車場に止めるべきか迷ったが、参道の外れにある、何となく馴染みのある名称のコインパーキングに停めることにした。

 

このコインパーキングは60分100円と、投げ遣りというか、何とも良心的な価格設定だった。ちなみに、東京銀座のコインパーキングの相場は15分でおおよそ500円だから、東京で同じような名前のコインパーキングに止めたら、20倍以上の料金を支払うことになるかもしれない。しかし、60分100円で儲けが出るのだろうか、税金対策だろうか、などと考えた。

 

かなり腹が減っていたので、参道に並んでいるそば屋で美味そうな店を探すことにした。あまりにも腹が減りすぎていて、長野から来ている患者さんに教えてもらっていたそば屋を探す気力はもはや皆無だった。

 

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参道は平日ゆえか、ガラガラだった。吉祥庵という縁起の良さそうな店があったので、ここに入ることにした。店内は昼時ゆえ満席だったが、店員の愛想も良く、店内の客がみな旨そうにそばをすすっていたので、しばし空席が出るまで待つことにした。

 

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結局、あまり待たずに、席に通された。とりあえず、日替わり定食を注文することにした。そば嫌いのこびとも同じものを頼んだ。5分ほどで美味そうなそばが運ばれてきた。

 

西日本の人間はそばよりもうどんを好む傾向にあるが、こびとも例にもれず、そばが嫌いだった。しかし、ここのそばは殊の外(ことのほか)美味く、こびとはそばが好きになったようだった。

 

東京のそばと言えば江戸時代から続く藪(やぶ)、更科(さらしな)、砂場(すなば)が有名だけれど、個人的には長野のそばが一番の好みだ。

 

以前、師匠と私と、師匠の知人で鍼灸師からミュージシャンに転向すると吹聴していた変人某氏と三人で、近所の某そば屋で昼飯を食ったことがあった。出雲蕎麦に馴染みのある師匠は、真っ白な更科蕎麦を見て開口一番、「こんな素麺みたいに白いのはそばじゃないでしょ!」と店主に聞こえるようなトーンで嫌みを込めて叫んだ。店主の顔は明らかに引きつっていたが、師匠は気にしていない様子であった。それから数年後、師匠が叫んだ影響かどうかはわからぬが、そのそば屋は閉店してしまった。

 

東京人からしてみれば、そばは本来、ツルツルと喉越が良く、小気味よく食べられるのがそばであって、出雲蕎麦のようにボソボソしたそばは、もはや蕎麦と言うより「そばがき」を食っているような感覚がある。

 

しかし、出雲人に言わせてみれば、東京のそばなんてのはそうめんみたいなもんであって、そばの香りがないそばなんてそばではない、ということらしい。

 

個人的にはその中間に位置し、喉越しの良さと香り高さを備えた信州そばが最高だ。島根だと、安来市にある「まつうら」というそば屋が信州風で美味しい。東京には無数のそば屋が存在するけれど、残念ながら、自分好みのそば屋は1つもない。

長野へ行った話1

 

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戸隠神社には、20年くらい前に1回だけ行った記憶がある。しかし、何故かその時のことはほとんど覚えていない。スノーモンキーのいる地獄谷野猿公苑には、2015年の11月に初めて行った。

 

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2016年の年賀状に使う猿の写真を撮るため、東京からミニカーに等しいVWルポで日帰りするという気違い染みた計画で、帰りはノーマルタイヤで予想外の降雪に遭い、地獄谷野猿公苑のあとに本当の地獄をみることになった。でもまぁ、あそこは中々面白い場所だった。

 

今回は、新幹線で長野へ行くことにした。長野市までは北陸新幹線を使うのが最も速くて楽だ。新幹線は1時間に2~3本出ていて、所要時間は片道約90分、料金は全席指定で8000円前後だ。池袋駅や新宿バスタ、東京駅八重洲口からも、長野駅行きの高速バスが1日10本前後出ているらしい。所要時間はおおよそ4~6時間前後だが、片道料金は1500~2500円くらいだ。時間や体力に余裕がある人、バス好きな人には良いかもしれない。

 

高速バスには2回だけ乗ったことがある。2回とも島根にいた時で、1回目は派手な車体色で躍進した某社が、松江-東京間の運行を開始して間もない頃、松江から東京まで乗った。

 

松江駅を20時頃に出発して翌朝7時すぎに東京駅に着く、というスタイルは今と変わらないが、当時は運転手が不愛想な上に、休憩が1回だけで、シート間も狭く、ノッポが11時間も車内で過ごすにはあまりにも過酷であった。

 

しかも、休憩は中間地点にある多賀あたりかと思いきや、島根県からほど近い岡山県蒜山SAのみだった。その後1回、深夜にどこかのSAに入ったものの、乗客は降ろしてもらえず、運転手がタバコ休憩するだけ、という素晴らしい運行スケジュールだった。

 

八雲町に住む患者のTさんが「東京行くなら夜行バスがいいけん」と、たまに来院するたびに耳が痛くなりそうなほどしつこく言うもんだから、話のタネにと興味本位で1回だけ乗ってみたのだった。

 

エコノミークラス症候群は座りだしてから、6時間くらいで起こりやすいと言われている。運が悪ければ、東京に辿り着く前に肺塞栓で彼岸に旅立っていたかもしれないと考えると、恐ろしい。ちなみに、現在は運行スケジュールが改善されたようだ。

 

高速バス体験の2回目は、神の名を冠した松江発の夜行バスだった。前回同様、同じルートで東京へ向かったわけだが、最後部の座席を選んだせいで、ほぼ真下にあるエンジンの振動と騒音で乗車開始直後から気分が悪くなり、11時間あまり、ささやかなる地獄をみた。初回のバス会社に比べてサービスは良かったけれど、それ以来、高速バスには乗っていない。

 

 

ある夏の日の晩餐(後)

穂掛祭は曜日に関わらず、毎年8月28日に行われている。東出雲に隣接する、中海の神石である「一つ石」から揖夜(いや)神社まで、約1kmの陸路を、舟で往来する神事だ。日本の沿岸部では、豊漁を祈願した、舟を使う神事がよく見られるが、実際にこういった祭りを見るのは初めてだった。

 

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北京堂発祥ハウスから揖夜神社までは、揖屋駅の上にかかる歩道橋を渡り、そこからさらに10分ほど歩かねばならなかった。お父さんは80歳を超えているにも関わらず、毎日しんぶん赤旗をせっせと配っていたゆえか健脚で、ついていくのが大変だった。

 

 

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歩道橋を渡って少し歩くと、中海から商店街に舟が戻ってきているのが見えた。船の底には車輪が付いていて、それを山車のように数人のオッサンが曳(ひ)いていた。舟は数種あり、子供が乗り、お囃子(はやし)をしている船もあった。

 

 

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荷台に、ねぶた祭で使うような灯籠や提灯を載せて、のんびり走っている軽トラもあった。

 

 

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松江市にはこんなに人がおったんか、というくらいの人出で、立ち止まって写真を撮るのに一苦労だった。私が「出店(でみせ)が沢山並んでますね」と言うと、お父さんは、「昔は出店がもっと沢山ありました。〇〇から来ているテキヤも多く、〇〇もありました」と、地元民しか知らないような衝撃的なネタをサラリと語った。都会に比べて娯楽の少ない地域であるから、地元民にとっては今も重要なイベントの1つになっているのであろうな、と想像した。

 

 

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結局、揖夜神社に来てみたものの、すでに神楽や安来節などの演目は終わっていたようだった。とりあえず、揖夜神社の由来が書かれた看板を眺めることにした。どうやら、揖夜神社は揖屋ではなく揖夜と書くらしい、ということをここで知った。出雲大社と同様、大社造のようだった。

 

 

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揖夜神社の創建については不明だが、日本書紀出雲国風土記延喜式神明帳などに、揖夜神社と思しき記載があり、平安期より前には存在していたらしい。また、三代實録には、清和天皇貞観十三年に、正五位下の御神階を賜ったとの記載があるそうだ。

 

特に神社で見るべきものがなかったので、北京堂発祥ハウスへ戻ることにした。実際には「戻ることにした」というより、我々はお父さんの後ろを、お父さんの意思に従って、お父さんの行きたい方向に歩いていただけだった。祭りのメイン通りから離れると人がまばらで、まさに田舎の商店街、という雰囲気が露骨に感じられた。

 

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お父さんは往路よりもゆったりと歩きながら、時々立ち止まっては、観光ガイドのように建物の歴史などを語った。くみたけ百貨店は親戚が経営しているそうだ。現在は、近くにコンビニやイオンが進出したためか、大そう哀愁漂う感じだったけれど、半世紀くらい前は、本当に百貨店のような存在だったのかもしれない。

 

しかし、組嶽とは珍しい苗字だ。店頭には祭りを眺めるためと思しき椅子が、2つ置かれていた。そういえば以前、お母さんが、「周はこの時期になると必ずこっちへ帰ってきて、友達とお酒を飲みながらお祭りを眺めるのが好きなのよ」と、言っていたことがあった。きっと師匠は、くみたけ百貨店の前の椅子に座っていたのかもしれないな、と想像した。

 

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くみたけ百貨店のすぐ近くには、越野とうふ店があった。お母さんはここの天ぷらが大好きだった。私が松江の北京堂にいた頃は、お母さんは出来立ての越野の天ぷらを買い、定期的に持って来てくれた。ちなみに、アルコールで脳が委縮していたためかどうかは今となってはわからないが、お母さんは毎回、「東京の人はこういうものを食べたことがないでしょう」と言っていた。慈悲深い私はその都度、「はい、食べたことがありません」と答え、天ぷらを受け取らねばならなかった。

 

松江には他のメーカーの天ぷらもあったけれど、やはり越野のモノが一番美味かった。松江では、天ぷらよりもあごの野焼きが有名だけれど、私は越野の天ぷらの方が好きだった。ちなみに、松江で言う天ぷらとは、魚のすり身を挙げた薩摩揚げみたいなモノのことだ。

 

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しばらく歩くと、揖屋駅を示す看板の手前に、「いやタクシー」と書かれた看板が見えた。「揖屋タクシー」と書くと読めない人が多いから、あえて平仮名の屋号にしたのであろうが、どうもタクシーを毛嫌いしている個人が掲げている看板のようにしか見えなかった。かつて、B級雑誌として一世を風靡したGON!が生き残っていたら、微妙な看板として、雑誌に掲載されていたかもしれない。

 

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商店街を抜けると、右手にローソンが見えた。まだ開店して間もない雰囲気で、物珍しそうに中を伺う地元民で賑わっていた。

 

さらに先へ行くと、「三菱農機」と記された看板が見えた。ここから先は三菱農機の工場地帯らしかった。東出雲と言えば、農業機械のパイオニアとされる三菱農機が最も有名かもしれない。三菱農機の全盛期は、町内にはもっと活気があったらしい。

 

お父さんは我々の前を歩きながら、「東出雲町松江市との合併を頑(かたく)なに拒んでいたのは、三菱農機に勢いがあったからです」と、出雲訛りの標準語で言った。

 

私とこびとは、東出雲にこんな大きな工場があったんか、と驚きつつ、お父さんと最初で最後の夜のお散歩を終えることにした。別れ際、お父さんが、「明日、一緒に黄泉比良坂(よもつひらさか)へ行きませんか」と言った。私は、黄泉への入口とされる黄泉比良坂には以前から行ってみたいと思っていたため、快諾した。

 

ある夏の日の晩餐(前)

2013年の8月28日は、今でも昨日のことのように覚えている。

 

私は松江での3年余りの任期を終え、9月からは師匠がいる三鷹の北京堂を引き継ぐため、東京へ戻ることになっていた。

 

私が島根を離れることを知った師匠のお父さんは、「8月28日に東出雲の祭りがありますが、ウチで一緒に夕飯を食べませんか?」と言った。実は、それ以前にも、武内神社の夜通しの祭りを見に来ないかと何度か誘われていた。しかし、鍼灸院の都合で止むを得ず断っていた。

 

何故か、今回は最期の機会になるかもしれないな、という思いが脳裏をよぎった。それゆえ、断らないことにした。独りで行くのも何だか侘(わび)しい気がしたので、「こびとを連れて行っても良いですか?」と聞くと、お父さんは「どうぞ、どうぞ」と言った。東出雲の祭りは穂掛祭と言い、毎年行われる、揖夜神社の神事らしかった。

 

この日は水曜日で、仕事を終えてからバイクで東出雲へ向かった。松江の学園通りから東出雲までは、バイクで10分くらいだ。すでに日が暮れかけ、周囲は薄暗くなっていた。

 

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師匠の実家は9号線沿いにある。9号線は出雲から松江、米子をつなぐ山陰の大動脈だから、比較的車の往来が激しい。それゆえ、車で行くと駐車場の出入りが難儀なので、バイクで行くことにしたのだった。何とか、19時前に到着した。

 

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とりあえず、島根を離れる前に、記念として北京堂発祥ハウスの外観を撮っておくことにした。

 

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ボタンだけのインターホンを押し、見慣れた引き戸を開けると、待ってましたとばかりに、お母さんが出迎えてくれた。

 

股関節をかばうように、肩を左右に大きく揺らして歩くお母さんについてゆくと、8畳の和室に通された。部屋の真ん中には、こげ茶色の四角い座卓があり、左右に座布団が2つずつ敷いてあった。

 

こびととお母さんは初対面だった。私がお母さんにこびとを紹介すると、お母さんは何の脈絡も無く、「あら!あなたバレーボールやってるの!」と叫んだ。こびととバレーボールを結びつけるような情報は一切見当たらなかったが、どうやらお母さんは、こびとがバレーボールの選手か何かであると思い込んだ様子だった。お母さんはビールが好きで毎日飲んでいるとのことだったから、アルコールによって側頭葉が委縮し幻覚が見えているのではなかろうか、と想像した。

 

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我々が返答に困っていると、お母さんはおもむろに窓を開け、庭の植木に水をやり始めた。もはや、こびとがバレーボールをやっているか否かはどうでも良い様子であった。

 

 

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お母さんが水やりをしている間、かつて、師匠が治療部屋に使っていた部屋を覗いてみることにした。お父さんは私を信用していたから、普段から、治療部屋は自由に見て良いと言ってくれていた。そういえば、東京にいた師匠から、「〇〇の本を探して送って」と頼まれたことがあったが、本が多すぎて探すのが大変だった。

 

北京堂が松江の学園通りに移って以来、ここは徐々に物置部屋に変わっていったようだった。本棚には、師匠が中国でコツコツと買い集めた、中医関係の本がギッシリと並べられていた。どれも、今では絶版になった貴重なモノばかりだった。鴨居の上には、青い箱に入った、特注の4寸鍼が無造作に並べられていた。

 

私が弟子入りして間もない頃、師匠は「実家には鍼灸湯液の本が1000冊以上あるだろうなぁ」と呟いていたことがあったが、確かにそれくらいはありそうだった。30年前の中医書は紙質が悪く、古いペーパーバックのようで、貧しかった中国を垣間見た気がした。

 

しばらく本棚を眺めたあと、客間へ戻ることにした。座布団に座り、窓越しにお母さんを眺めていると、お父さんが急須と湯呑をお盆に載せて、客間に入ってきた。湯呑に注がれたお茶をすするや否や、お父さんが、「風呂を沸かしてありますから、先にお風呂に入ってください」と言った。今の東京では考えられないことだが、これが田舎における、客人のもてなし方なのであろうな、と想像した。

 

風呂場は昭和を感じさせる作りで、正方形の水色の風呂釜の横に、小さなスノコが置いてあるだけだった。シャンプーやリンス、コンディショナーなどは無く、固形石鹸が1つ置いてあるだけだった。とりあえず、シャワーで体を流し、湯船に浸かった。

 

風呂の北側には小さな窓が付いていて、窓の外には青々と密生した稲穂が、その向こう側には山陰本線の線路が見えた。湯船に浸かってしばらくすると、ガタンゴトンと、電車が通り過ぎる音が聞こえた。平和なひと時だった。そういえば、お父さんとお母さんは、山陰本線のことを電車とは言わず、汽車と言っていたな、と思い出した。

 

風呂から上がり、脱衣所に用意してあったタオルで体を拭いた。風呂に入る前に、予めドライヤーが無いことを確認していたから、頭は洗わなかった。以前、僻地にある温泉へ行ったとき、脱衣所にあると思い込んでいたドライヤーが無くて、後悔したことがあった。それ以来、自宅以外で風呂に入るときは、必ずドライヤーの有無を確認してから、頭を洗うかどうかを決めることにしていた。

 

 

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少しスッキリした気分で客間へ戻ると、座卓には料理が並べられていた。お母さんは私を見て、「今、お父さんが魚を焼いていますから、座っていて下さい」と言った。

 

お母さんとこびとと与太話をしながら10分ほど待っていると、お父さんがニコニコしながら、焼いたばかりの魚を運んできた。お母さんは、「お父さんは魚を焼くのが上手なのよ」と言った。

 

私が、「鯛と鮎なんて、東京じゃ滅多に食べられませんよ」と言うと、お母さんは、「あら、そうなの」と笑みを浮かべながら興味深そうに言った。

 

 

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島根にいた頃は境港が近いせいもあり、美味い寿司は散々食べた。しかし、お父さんが買ってきてくれた五右衛門鮓の鯖寿司は、一度も食べたことがなかった。お父さんは、「米子に本店があってね。中々美味しい寿司ですよ」と言った。お父さんは、さりげなく、五右衛門鮓の小冊子を置いてくれていた。確かに、これは美味かった。

 

一方、お父さんが焼いた鯛と鮎は焼くのが上手と言うわりに、少し生焼けのような気がした。しかし、心優しい私は、「美味しいですね」と連呼しながら食べた。

 

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島根に来て間もない頃、そもそも師匠が何故に鍼灸の道を選んだのかを、お母さんに問うたことがあった。当時、師匠は東京の大学に進学し、桜上水に住んでいた。しかし、甲州街道近辺を漂う排気ガスの影響か、呼吸器を悪くし、一時的に島根に戻ることになった。ある日、家族でテレビを見ていた時、ドキュメンタリー番組か何かで、中医が西医に見放された患者を針灸で治す、というシーンが放映された。

 

で、これを見ていた師匠は「おかあちゃん!これからは針灸の時代だよ!僕は針灸学校に行く!」と言ったそうだ。要するに、お母さん曰く、師匠が鍼灸の道に入ったきっかけは、テレビ番組だった。どこまでが本当の話なのかはわからなかったけれど、師匠の昔話となると、お母さんは大そう嬉しそうに語ったものだった。この日もお母さんは、何度も聞いたことがある師匠の昔話を、延々と語り続けた。

 

食事が終わり、デザートにブドウが出てきたが、さすがに食べきれなかった。すでに、20時30分を過ぎ、外は真っ暗だった。私が何気なく時計を見やると、お母さんが、「あなた達、せっかくだからお祭りに行って来たら。東京の人は田舎のお祭りを見たことが無いでしょう」と言った。

 

すると、お父さんが間、髪を入れず、「私が案内しましょう」と言った。お母さんは股関節が悪いせいか、室内を歩くのもしんどい様子で、「私は家にいますから」と言った。結局、これが、お母さんとの最期の会話になった。

 

 

 

 

原風景

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最近は、とにかく忙しすぎて、ブログを書くヒマがない。

 

刷新したウェブサイトをアップロードしている合間に、何とかこのブログを書いている。今日は17時間ぐらいぶっ通しで働いているから、さすがに眠い。最近は曜日に関わらず忙しいが、やはり日曜日の夜が一番身に応える。

 

弟子入りした当初から、師匠に教わった通りにやっていれば、日を追うごとに忙しくなってくるだろうと予想していたが、確かにそんな感じになっている。

 

中国の針灸書を読み漁るようになってからは、技術的にはまだまだ満足してはいないけれど、これまで治せなかったような病態も少しずつ治せるようになってきたように思う。

 

先月、長年使用しているウェブソフトのBiNDがまたクラッシュし、ウェブサイトの更新ができなくなった。クラッシュはこれまで何度となく経験しているから、バックアップを小まめにやっておいたおかげで、大事には至らなかった。

 

BiND8になっても未だに変わらぬバグが起こるとはソフトとしてはどうかと思うが、とりあえずは対処法を身に着けているから、何とかウェブサイトを維持できている。

 

BiNDには容量の上限はないと公表されているが、どうやら5Gが上限になっているようだ。容量に上限がないと言っているのに、実際には「ファイルアップロードの上限設定が5368709120バイトです…」というサイトデータインポートエラーの画面が出るのだから、不信感が募る。

 

サポートセンターに問い合わせたところ、BiNDはパソコンのスペックによってかなり動作が変わるという話だったから、秋葉原まで行って、最新のパソコンを買いなおした。6コアになった最新のCore i5-8400搭載デスクトップパソコンだから、ちょっと高かったが、相当に快適になった。秋葉原駅から歩いて数分の場所にある某店舗で、明らかに電脳戦士な雰囲気の店員とおしゃべりして、「Core i5、8G、2TBもありゃあ十分だろう」ということになった。

 

1週間後に出来立てホヤホヤのパソコンが届いたが、確かに、その通りだった。これでBiNDが快適に動くだろうか、と期待した。

 

しかし、このクソ忙しい時にパソコンのデータを移さねばならぬ上に、BiNDのサイトデータを修復しなくてはならぬとは、本当に嫌になったが、やるしかなかった。

 

結局、パソコンがハイスペックになっても、6Gを超えたサイトデータはインポートできなかった。サポートセンターはサイトデータを分割するしか方法がないと言ったが、そもそも5Gの制限がかかっているソフト上で6Gのウェブサイトを構築できたこと自体がおかしいし、クラッシュしたあとでウェブサイトを分割しようにも、ソフトがサイトデータを取り込まぬのだから、どうにもならない。

 

色々考えた末、ZIP形式で圧縮されたデータを再び展開し、ファイルを精査して、要らぬ画像データを削除することにした。「_src」というファイルに画像データが格納されていて、開いてみたら、何と11800枚以上の画像を詰め込んであった。ほとんどが北京日記シリーズの画像で、16年と17年以外の画像の大半を削除し、3Gほど減量させることができた。で、再びデータを圧縮し、BiNDにインポートすることにした。

 

しかし、どうやら一旦展開したサイトデータは、再び圧縮してもBiNDが認識せず、インポート不能になるということがわかった。サポートセンターが言うには、とにかく新たにサイトを作るか、容量の小さい古いサイトデータを再インポートするしかない、とのことだった。

 

仕方がないので、5G以内の古いデータを探して、再インポートすることにした。4.99GBだったので、問題なくインポートできた。

 

とりあえず、北京日記だけを搭載したサイトと、すべてを詰め込んだファットかつフラジャイル的なサイト、日記の一部を削って容量を5G以内に抑えたミラーサイトの3種に分割し、データをバックアップした。理想は2017年秋の北京日記までを搭載したサイトを完成させることで、完成の暁には、サイト容量は7Gを超えるだろうが、クラッシュ承知の上で再構築することにした。

 

ついでに、サイトデータすべてのページを見直して、一部内容を刷新した。それと、これまでは浜松町の貿易センタービルや、東京都庁の展望室から撮った写真をトップページに使っていたのだが、イマイチしっくりこないので、三鷹市のOKストア屋上駐車場から撮った写真に変えてみた。 

 

自分の頭の中にある東京の原風景は、ミスチルの「口笛」というシングルCDのジャケット内面で使われた渋谷区富ヶ谷の歩道橋から西方向を望んだような、ビルの合間を電線が絡み合うように走る、ゴミゴミとした街並みだ。

 

富ヶ谷の歩道橋から見た風景も、随分と変わってしまった。残念なことだが、このまま電線の地下埋設化が進めば、東京はファインダーを通して観ても、無機質な都市になってしまうのかもしれない。

遺産

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2010年、針灸は無形文化遺産として、ユネスコにリスト入りした。と言っても、保護対象になったのは中国針灸だけの話であって、日本鍼灸はほぼ無関係だ。これに対し韓国は猛反発しているそうだが、日本ではこの話題自体に触れる鍼灸師が皆無に等しい。

 

そんな状況を鑑みると、中国針灸に対する情報収集能力に関しては、日本よりも韓国の方が優れていると言えるかもしれない。さすがは年間50億本と言われる針の世界製造市場を、中国と二分している御国である。

 

日本の市場で流通している針の大半は中国製だ。現在、日本には針を作っている工場が数社しかなく、純日本製は中国製に比べて1本当たりの単価が割高であるため、懐具合のお寒い大方の鍼灸師の間では歓迎されていないのが実情のようだ。そもそも品質が同等で仕入れ値が半額以下であれば、安い中国針を買うのが正常な反応だろう。経営的な観点から考えても、品質に特段勝った点がなければ、コストは可能な限り低く抑えられた方が良い。コストが上がれば施術価格を上げざるを得ないから、仕入れ値を抑えることは患者のメリットにもなり得る。まぁ、我利我利亡者のような経営者であれば、仕入れ品を極限まで買い叩いた上で高額な施術料金を設定するであろうが、マトモな鍼灸師であればそんなことはしないはずだ。ちなみに日本以外では、ドイツやベトナムでも針が製造されているそうだが、世界的にみるとそのシェアは僅からしい。

 

某国の鍼灸界では、「針灸の伝統は中国よりもウチの方が上じゃ!」などと騒いでいる御仁もおられるそうだが、中医経典の豊富さを比べてみるだけでも、中国の方が格上であることは明白だ。一方、国宝にできるほどの純国産の鍼灸書を持たぬ、針灸発祥の地でない日本の鍼灸業界では、未だに鍼灸重宝記や難経のみに論拠を求め、少数精穴だとか騒いで、施術を行っているケースが少なくない。ちなみに、中国では難経のことを黄帝八十一难经とか、八十一难と呼んだりする。

 

鍼灸重宝記は、学生の頃に当時のモノを入手して既に読了済みであるが、個人的には全く役に立っておらず、本棚の片隅に埋もれている。希少本であるから読まずとも流石に捨てる気にはならないが、緊急時には燃料にでもしようかと思っている。難経はアヤシイ日本語の注釈本を学生時代に学校で読まされたが、教科書も教員も信用していなかったから、卒業後に中国語で読みなおした。

 

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そもそも、難経は経絡、臓腑、陰陽、病因、病機、営衛(気血)、腧穴、刺鍼、病証脈などについての問答集で、針について書かれているのは六十九難から八十一難だけである。つまり、実質13個の短いQ&Aだけにしか、針の情報が記載されていない。これだけを論拠にして効果的かつ再現性があり、現代中医的な針治療が行えるかと考えてみると、ほぼ不可能に近いだろうと思われる。確かに、中医は基本的な内容を暗唱するほど中医経典を臨床において重要視しており、新しい処方も刺鍼法も古典を論拠にして生まれることが多い。しかし日本より遥かに広大な中国においても、難経だけを論拠に針をしている中医などは見たことも聞いたこともない。

 

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だいたい、黄帝内経や針灸大成、針灸甲乙経、針灸聚英、針灸问对などの著名かつスタンダードな中医経典があるのに、なぜ、日本の鍼灸師はそれらを読み、治療の論拠としないのだろうか。本質的な要因としては、日本で権威とされている鍼灸師も含め、日本の鍼灸師の多くが、中国語を解せぬことが挙げられる。さらに、日本の鍼灸学校のカリキュラムに医古文の授業がなく、国内で適切な注釈書が入手できないことも問題だ。例えば刺鍼する際に最も重要な「得気」についてでさえ、未だ日本ではほとんど知られていない。今のところ、日本で素問、霊枢、針灸大成、針灸甲乙経を完訳した鍼灸師は、私が知る限り、浅野周先生だけだ。今後は、日本も中国のように良質な注釈書を数多流通させなければ、延々と中国人に見下されているばかりかもしれない。とにかく、現在、日本で流通している鍼灸書は惨憺たる内容ばかりで、読むに堪えぬものが多すぎる。

 

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中国では、1976年に朱汉章が発明した小针刀を発端に、1992年には「小针刀疗法」が出版、2003年には针刀医学が確立された。2004年には、古代九针からヒントを得た黄帝针と呼ばれる刺鍼法が中华中医药学会理事の黄枢教授によって開発され、メスを使わず低侵襲で頸椎疾患を完治させる刺鍼法が実用化されている(http://www.chinahsh.com/)。さらに、2009年の中医药健康大会では、穴位埋线を進化させた浮针疗法が発表され、1回の施術で即時に可動範囲を拡げたり、瞬時に痛みを無くすことに成功している。ここ30年で、中国はにわかには信じ難い速度で経済発展を遂げているが、中医の分野においても中西結合的な目覚ましい進歩を遂げている。

 

日本の鍼灸師が古代九針の模型を眺めながら、中国古代の針灸治療を夢想したり、極一部の古典に囚われている間に、中医はさらなる高みを目指し、進んでゆくだろう。日本には、「中国人はまだ人民服を着て生活してるんでしょ」なんて言う人もいるが、すでにデジタルアプリケーションで日本を凌いでいるように、針灸業界も日本の鍼灸師が知らぬ間に遥か彼方へ到達してしまっているのが現実だ。

 

日本の鍼灸界には、医師と鍼灸師が分業されていることや、医師であれば鍼灸学校を卒業していなくても鍼灸施術ができるということ、鍼灸師に法的な制約が多いことなど、様々な問題がある。しかし、とりあえずは、鍼灸学校で使われている教科書やカリキュラムを見直すこと、中医薬大学などから教員を招聘して日本人教員のレベルを底上げすること、国内で活躍している鍼灸師の下でのインターンを課すことなどが可能となれば、日本鍼灸もやがては変化を見せるだろうと思う。しかし、一番大事なのは、鍼灸師各々が中国針灸および日本鍼灸の現状を客観的かつ冷静に分析し、現実をしっかりと見据えておくことだ。

 

ちなみに、日本では国内最古の医学書として医心方が国宝扱いになっている。しかし医心方の内容は主に中医経典の抜粋であるから、鍼灸師としては現存する中医経典を中国で買い集めた方がメリットが多い。中国に行けば沢山の原書があるのに、わざわざ一介(いっかい)の写本にこだわる必要はない。中国語を勉強して、原本を読めば良いだけの話だ。

 

もし、かつての日本に優れた鍼灸書や、神医と呼べるような鍼灸師が存在していたら、こんなにも鍼灸が受け入れられ難い世の中にはなっていなかっただろう。日本には未だに、慢性頭痛や腰痛の類でさえ、3回程度の施術で完治させることができる鍼灸師は極めて少なく、実際に一部の学会などでは、「どうやって刺せばいいんじゃ!」などと大層な議論を続けているような状況だ。ありふれた病態さえマトモに治せぬのに、「難病は鍼灸で治せるんじゃ!」などと憑りつかれたように喧伝している御仁もいるようだ。実力のない鍼灸師が難病専門を謳い、藁にもすがる思いの患者を集め、悪評を立てられているケースもある。一般的には、まずは簡単な病態を確実に治せるように技術の基礎を固め、徐々にステップアップして、難治の患者を受け入れられるようになってくるはずだ。

 

最近は日本鍼灸を海外へ広めようという動きもあるそうだが、日本人にさえマトモに受け入れられていないのに、果たして世界に受け入れられることなどあり得るのだろうか。本業がままならず、他でアルバイトしないと食って行けぬと嘆く鍼灸師が多数派を占めるこの日本で、大衆からはエセ科学であると揶揄され鍼灸師としての社会的地位が危ういこの日本で、国際基準さえ持たぬ鍼灸師たちが、どのようにして日本鍼灸を国際化することが可能になるのであろうか。私はそういう客観的事実に気が付かない時点で、非常に胡散臭いと感じてしまうわけだが、とにかく海外へ進出したがる鍼灸師が実在するのは確かなようだ。ある人は、日本で稼働している鍼灸師約8万人のうち、5%程度が開業して成功していると言うけれど、私は1%にも満たないのではないかと推察している。

 

すでに中国では、国策として中医の世界進出が推し進められている。2013年11月には北京の同仁堂がポーランドで営業を開始し、欧州市場に参入した。同仁堂は中国で最も有名な薬屋の老舗で、欧州では中医を常駐させ、中医薬医院として機能させている。現在まで、オランダのハーグ、スウェーデンストックホルムチェコプラハなど、26か国に130店舗以上出店し、5年足らずで欧州に中医薬、針灸を広めたと言われている。

 

2014年、一帯一路政策により、ドイツ・デュースブルク-中国・重慶間、約11,000キロを結ぶ、中欧班列と呼ばれる国際鉄道が開通した。それ以来、中国の欧州進出は勢いを増している。同仁堂が短期間で支店を増やすことができた背景には、中国針灸がユネスコ入りしたことや、屠呦呦(Tu Youyou)が中国人初のノーベル生理学・医学賞を受賞したことなども、少なからず影響しているだろう。

都会の妖怪

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ここ数か月、やることが多すぎて完全な休日が無かった。年末から正月は3日間休みにしたけれども、結局ほぼ3日間、帳簿やら残業やらに追われて終了した。1月4日は木曜日だったから完全なオフにして、日帰りでこびとと箱根へ行って来た。箱根ではシカゴ在住だという上海人家族に話しかけられた。10年ぶりくらいの箱根は、あまりにも中国人観光客が多すぎて、日本にいる気がしなかった。強羅は硫黄ガスがモクモクと立ち込めていてお盛んな様子だった。

 

ウェブ予約を導入して2ヶ月が経ち、電話が減ってかなり楽になったけれども、それでもやらなければならぬことが沢山あって、中々息をつくヒマが無い。知り合いの鍼灸師から講習会をやってくれないかと言われたりするけれど、私は常々患者の施術を優先すべきであると考えているから、あまり講習会なぞに時間を割く気にならない。だいたい、患者の立場になって想像すればわかることだが、症状が重度であればあるほど、患者は一刻も早く楽にしてもらいたいと思って来院するから、可能な限りその要求に応えられるよう努力しなければならない。それゆえ、ひっきりなしに患者が来るようになると、講習会やセミナーなぞに貴重な時間を費やし、鍼灸師同士で百鬼夜行の如く群れてワイワイやっている余裕など無くなってくる。

 

昔と違い、今はやる気があればDVDや動画を観るだけでも、ある程度の技術の習得は可能だ。例えば北京堂には見学者を無料で受け入れろという師匠の教えがあるから、自分で学習していて疑問点が出れば、見学時に聞けば良い。技術は自分でトライアンドエラーを繰り返すことで向上するものだから、結局は己にやる気がなければ、大そうなセミナーに参加しようとも、何も変わりゃあしないだろうと思う。

 

正月はオートクレーブの掃除をした。鍼灸学校では教えてくれなかったけれど、オートクレーブは半年または1年に1度くらいのペースで、酒石酸で洗浄すると長持ちする。もちろん、タンク内の水は週1くらいで交換が必要だけれど、ちゃんと交換していても、カルキなどが罐内に溜まってしまう。一応、ビフォア&アフターの写真でも載せておこう。洗浄後の罐内は、新品同様に綺麗になる。

 

 

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これが、

 

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こうなる。

 

年末から今日まで忙しかったのは、北京の針屋に発注しておいた針が遅れて届いたのも1つの原因だった。北京の針屋には、去年の9月に微信で特注の針を注文しておいた。しかし10月下旬に発送すると断言していたものが、工場との連絡ミスだとかで12月半ばになった。年末はただでさえクソ忙しいのに、銀行へ行って送金手続きを済ませたり、厚生局へ薬監証明の書類を送ったりして、てんやわんやで大幅に予定を狂わされた。結局、荷物はお役所が休みに入った12月29日に日本に着いた。

 

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で、やっと今日、東京税関外郵出張所へ行って、納税の手続きを済ませてきた。ちなみに針を輸入する際、針自体に関税はかからないが、消費税はかかるから、ちゃんと納めねばならない。

 

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東京税関外郵出張所の最寄駅は東西線南砂町駅であるが、駅前の大通りには、妖怪小豆とぎのように怪しげに鼻歌を歌いながら、街路樹に絡まったヘクソカズラを一心不乱にむしり取っている御婦人がいた。街路樹は公共物であるから、妖怪であろうが人間であろうが、食用の実がなっていても、許可なく取ってはいけない。帰り道、何気なく駅前に掲げてあった看板を見上げたら、吉祥寺にあるキラリナが南砂町にも出来るのかと思った。しかし、よくよく見てみると、看板には「キラリスナ」と書かれていた。どうやら新築の分譲マンションらしい。

 

夕方からは新たに導入する洗浄器を設置をしたり、洗浄用に使う特注の鍼皿の発注をしたり、突然壊れたパソコンのファイルを修復したり、バックアップを取ったり、ブログを書いたり、休日なのに全く休んだ気がしなかった。とりあえず、来週の休日くらいはのんびり過ごしたい。