東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

昔の記憶

先月、20年ぶりに京都と奈良を旅行してきた。基本的に東京に住んでいると何でも揃ってしまうから特段用事がない限り、わざわざ関西の都市部へ出向くことはない。今回は、とりあえず名所と呼ばれる場所を中心に巡ることにした。

 

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初日は京都タワーへ上ってみた。修学旅行シーズンゆえか、1階の土産売り場は中学生でごった返していた。

 

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京都タワーは大そう不安な外観であるが、実際に展望室に上ってみると予想通り変な揺れ方をするもんだから、望遠鏡にかじりついている中学生を傍目に、長居せずに降りることにした。

 

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しかし、まぁ高いところだから眺めは良かったが、大地震がきたことを想像すると、長居出来たものではない。

 

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とりあえず何もしないで降りるのはもったいないので、望遠鏡をiPhoneで覗いてみた。案外綺麗な写真が撮れた。

 

展望台から下ると、2階には怪しい電脳手相コーナーがあった。1回300円でコンピューターが占ってくれるらしい。とは言っても全自動ではないから半ば人力で占うようになっていた。

 

ヒマそうに立っていた受付らしきおばはんに代金を渡すと、よく使う方の手を出せと言われた。通常手相は両手をみて判断することが多いが、電脳手相コーナーではどうやら利き手だけで判断するらしかった。この時点で怪しさは倍増した。

 

右手をコピー機の上に置くと、すぐに私の手相がプリントアウトされた。おばはんはコピーされた手相を見て、慣れぬ手つきで機械を操作すると、私に相応しいと思われる鑑定書をプリントアウトして私に差し出した。鑑定書には無難なことしか書いてなかった。どうやらプリントアウトされる鑑定結果は数パターンしかないように見えた。

 

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京都タワーを出た後は近場の寺を巡って、ホテルへ帰ることにした。

 

2日目は早朝にホテルを出発して、鞍馬山へ登ることにした。患者さんから素晴らしいパワースポットだと聞いていたので、実際にどんなもんか確かめてみたいと思っていたのだった。私は良いと聞くと、確実に怪しいと思われるモノ以外はなるべく実体験してみることにしている。

 

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東京には三軒茶屋があるが、京都には二軒茶屋があるらしい。とりあえず写真を撮ってみた。

 

鞍馬山はあいにくケーブルカーが運休していて、全路徒歩で登ることになった。登山するつもりの恰好で出かけてきていたが、夏場だから暑くて結構大変だった。感覚的には山の起伏や生態系は高尾山に似ている。

 

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30分くらい黙々と登ると、鞍馬寺の本殿に着いた。目的は山中深くにある奥の院だから、とりあえず一休みすることにした。境内では鞍馬山にある保育園の子供が元気に遊んでいて平和だった。

 

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ほとんどの観光客はここで引き返していた。ここまでの道のりでバテてしまう人が大半のようだった。

 

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奥の院参道の入り口には、軽装で入山することを拒ませるかのような看板が立っていた。ヤマカガシもいればオオスズメバチもいるらしい。黒い服装ならアウトでしょうな。

 

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1時間くらいひたすら歩くと、奥の院に着いた。すでに参拝者が数人佇んでいた。奥の院は確かに雰囲気が違ったけれど、パワースポットなのかどうかはよくわからなかった。

 

10分くらい休んで、貴船方面へ下ることにした。貴船神社の近くにある飯屋で昼食をとる予定だった。貴船神社は丑の刻参りやら藁人形やら呪詛やらで有名らしいが、昼間に訪れる分には特に怪しい感じもしなかった。 新緑が眩しいくらいだった。

 

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3日目は嵐山へ行く予定だったが、やはり前からちょっと気になっていた奈良へ行くことにした。

 

そもそものキッカケは、2か月前に枻出版社のDiscover Japan5月号で水野南北翁の特集を組んだ時の話だ(http://ameblo.jp/ryudoumizuki/entry-12005146203.html)。

 

当院へ取材に来られた編集部のAさんに、「何故に今更、南北先生の特集を組むことになったんですか?」と問うたら、「編集長が春日大社宮司から“御宣託”を受けたんですよ。」という話を聞いていたのだ。

 

私は7~8年前から南北翁について独自に研究しているのだが、春日大社と南北翁の関係については初耳だった。実際に所以があったのかはわからないけれども、何かしらかの縁があったと推察されるならば、自称研究者としては行かずにはいられぬ。何某かの発見があるやも知れないからだ。

 

奈良へ行くのは中学校時代以来である。 

 

中学生の時は、確か修学旅行だか何とか訓練だかの名目で奈良を訪れたのだと思うが、特に楽しい出来事もなかったからか、当時の記憶はほとんど残っていない。微かに覚えていることと言えば、突然の雨で財布が濡れてしまって、一生懸命に旅館の一室で夏目漱石さんを乾かしている友人S村君の姿を眺めていたことや、旅館の夕食時にクラスメート数人が、瓶入りのコーヒー牛乳片手にしゃぶしゃぶ用の少ない豚肉をうばい合いながら食べているのを眺めていたこと、京都限定らしかったファンタのレモン味をお土産に買ったこと、学校の課題だかで見ず知らずのイギリス人に無理矢理、英語で街頭インタビューさせられたことくらいだ。

 

今回の奈良でも坊主頭の男子中学生が、アメリカ人らしき見ず知らずの女性に突如脈絡なく「サインプリーズ」と言っていた。しかし、ネイティブなら有名人などにサインをくれと言う時はautographを使うようだが、滅茶苦茶な字幕映画などが溢れる日本で普段からわけのわからぬ和製英語に毒されている中学生にとっては、そんなことはどうでも良いのかもしれないなどと思ったりした。

 

奈良と言えば、20代初めの頃、奈良の山奥にある天河神社という所へ行った時の事を思い出す。なぜ行こうと思ったのか詳しくは覚えていないが、急に思い立って、小さなバックパックを背負って独りで出かけたのだろうと思う。

 

天河神社へは下市口という駅から公共のバスで山中を行くのだが、その時は一人旅的な、影のある感じの若い女性がチラホラ乗っていた。

 

泊まる場所をどうやって確保したのか、どんな感じで過ごしたのかもほとんど覚えていない。旅館近くにあった、閑古鳥が鳴いているような飯屋で初めて馬刺を食べたことや、単なる民家のような旅館の女将に「相部屋になりますが良いですか」と聞かれたこと、相部屋になった同年代らしき男が明かな電波系で、「天川村はよくUFOが出るんですよ。私は何回か見たことがあります。」とか、「寝る前にちょっと川へ行って来ます。私には川の声が聞こえます。」などと神妙な顔をして語っていたこと、旅館の朝食で私の嫌いな高野豆腐が出たこと、当時洗脳されて雲隠れしていたらしいX(エックス)のTOSHIが奉納演奏に来ていたが、少人数ながらも女のファンが群れていて、歌声だけしか拝めなかったこと、くらいしか思い出せない(生の歌声は素晴らしかった)。

 

もはやどうやって帰ったのかさえも覚えていないが、今思い返してみれば、その電波系青年は影がほとんど無いかのような男だったから既に彼岸へ逝ってしまったかもしれない。しかし今思えば、見知らぬ男と相部屋になっても爆睡出来たなんて、平和な時代だったもんだと思う。今の日本じゃ、電車の中で寝顔を盗撮されてSNSに無断で投稿されたり、毒入りチョコを喰わされて財布をパクられたりしかねないから、気軽に相部屋なんて出来たもんじゃない。

 

15年くらい前はネットも大して発達していなかったし、SNSなんてのも存在しなかったし、携帯電話なんぞはメールか電話くらいの機能しか持ち合わせていなかった。ゆえに他人との関わりも希薄であって、お互い大して干渉しなくても済んだから、あれはあれで良かったと思う。いや、むしろ、他人との関わりあいにおいては昔の方が精神的には楽だったかもしれない。

 

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奈良公園鹿せんべい売り場では、中国人家族が鹿に襲われていた。中国語で「アイヤ―(あれまー)」とか「トントントン(痛い痛い痛い)」と叫んでいた。

 

公園内で鹿せんべいを売る老人は数人いたが、みな一様に無表情で「でぃあーでぃあー(Deer,deer.)」と念仏のように呟いているもんだから、せんべいを買うつもりが、即身成仏しているのかと思って、小銭を渡した後、合掌しそうになった。

 

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春日大社には初めてお参りした。国宝の御本殿は20年に1度の御開帳で賑わっていた。秘仏を公開するような感じだから当然にして撮影は禁止されていたが、恐れ知らずの中国人観光客がパシャパシャと撮りまくっていた。中国語ではああいう人のことを「无知无畏」と言うのだろう。

 

結局、何となく、宮司に会って南北翁の話を聞こうという気持ちにならなかったので、ふらりとお参りするだけにした。

 

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春日大社をあとにして奈良公園付近を徘徊していると、独特な雰囲気のメニューを掲げた茶屋があった。うどんのトッピングが奇抜でドン引きしたが、外国人は喜んで食べている様子であった。茶屋といえば箱根の甘酒茶屋の外観が好きだったが、こちらの方が茅葺の雰囲気といい、全体的な佇まいは上質であった。

 

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奈良公園に行った後は定番の東大寺へ行ってみた。奈良は京都と違って全体的なスケールが小さいから、短時間・低予算で回れて日帰り観光にはウッテツケである。

 

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東大寺を回った後は新幹線に乗り遅れるといけないので、早めに京都駅に戻ることにした。

 

手相といえば、20代初めの頃、イロイロあって路頭に迷っていた時期に、手相の大家であられた門脇尚平先生に、下北沢のご自宅で鑑定していただいたことがあった。ご自宅は下北沢駅から5分くらい歩いた住宅街にあって、インターホンを押すと気さくな感じで門脇先生がお出迎えになり、玄関左脇の居間に通された。10畳くらいの部屋に小さなちゃぶ台と座布団が2枚敷いてあって、部屋の奥には西式健康法の平牀(へいしょう、≒木板)と硬枕を置いたスペースがあった。

 

先生に促されて座布団に座ると、すぐに代金を請求された。3万円だった。先生は現ナマを手にするまで、会話をしない様子だった。随分高いと思ったが、門脇先生にお会い出来て感動していたし、鑑定内容に期待していたので、すぐに諭吉を3枚取り出した。ためらいながらも3万円を差し出すなんて、あの頃の私は今よりは遥かに純朴であったと思う。

 

門脇先生の手は随分と手荒れが酷く、表皮が剥けてカサカサになっていたので、つい「どうしたんですか」と言ってしまったが、先生は「ちょっとね」と言って話をはぐらかした。先生は西式健康法で完全なる健康体になっていると思い込んでいたが、西式に問題があるのか、先生に問題があるのか、当時の私にはわからなかった。

 

先生はしばらく私の手相をジッとみていたが、「あなたはちょっと変わった人と結婚するね」とか「吉相、吉相」と大きな声で言うだけで、私が聞きたかった内容はあまり判然としなかった。

 

結局、先生が話した内容の大半は下ネタ的な自慢話ばかりで幻滅した。まぁ大体、巷の占い師の多くは、客が望んでいる答えを推量してうまいこと言うだけの、鏡台みたいなモノなのかもしれない。

 

とりあえず、鑑定の時間が終わる前に、一つだけ聞いておきたいことがあった。門脇先生は多くの著書を残されているが、どの著書が一番お勧めなのかということが知りたかったのだ。

 

先生は、“手相はアリストテレスに始まって門脇尚平に終わる”、と自著で毎度のようにおっしゃっていたが、「本を書けて実際に観れる人は少ないでしょ。私は観れるし本も書ける。」と実際に語っていた。

 

先生は座りながら電話の受話器を取ると、おもむろに内線ボタンを押して、2階にいる娘さんだかに「『手相への招待』まだあったっけ?」と聞いた。私はどの著書がお勧めなのかを知りたかっただけで、本を買って行くつもりはなかったが、先生は本を売る気満々のようであった。とりあえず、先生が勧める本が『手相への招待』であることがわかったのは収穫であった。

 

鑑定の時間が終わると、先生は「手相の改善と健康のために、西式健康法をやりなさい。明日から朝食を廃止しなさい。」と言いながら、私に帰宅を促した。

 

こうして私が15年前に木枕の存在を知り、今、多くの患者に感謝されるような木枕の使用法を考え出すことが出来たのも、そもそもは門脇先生のおかげである。手相に関しての恩恵は少なかったけれども、西式の存在を教えて下さったことに関しては、門脇先生には大いに感謝している。

 

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そんなこんなで、京都から東京へ向かう新幹線の中で、デイパックの中に忍ばせていた携帯用の木枕を首にあてがいながら、若かりし頃の懐かしい日々を昨日のことのように思い出していた。

 

そういえば、最近、何人かの患者さんから携帯用の木枕を売ってくれと言われたのでメーカーに問い合わせてみたのだが、残念ながら携帯用は既に販売中止になっていた。以前はメーカーもバンバン作っていたらしいが、最近は需要がないのと職人が引退したとのことで、生産を中止せざるを得なくなったらしい。

 

木枕はしばらく使っていると旅行や出張にも携帯したいと思うようになるわけだが、うちの患者さんにもそんな感じの人がチラホラ現れてきたようだ。携帯用は折りたたむと通常の木枕の1/3くらいの大きさになるので、バッグに入れても邪魔にならず便利である。

 

ちなみに私の親戚に建具師がいるので、早速唯一所有している携帯用の木枕を送って、安く作れぬかと頼んでみたのだが、1つ作るのに1日かかるわ1万円以上はもらわないと割に合わないわなんていう話だったので、結局断った。個人的には5000円くらいまでなら買っても良いと思うが、あまりにも高いと誰も買わないだろうし、だいたい木枕にも相場というものがある。将来的には安くて、比較的作りの良いものを量産して販売したいが、今はまだ需要が少ないので、とりあえずこの案件はペンディング中である。

 

 

小児針

八王子中央診療所所長、小児科医の山田真氏が書いた『はじめてであう 小児科の本(福音館書店)』という本を読んだ。小児科関係の医学書はいくつか読んでいるが、これはとても良い本だと思う。最近、第三版が出たので、早速最新版をアマゾンで注文した。予防接種に関しての内容が加筆されたようだ。

 

題名からすると小児科に限った内容に思えるが、医療全般について記されているから、成人を診ているような医療者にとっても有益な内容であると思う。すでに子供がいる人も、これから子供を授かるであろう人も、この本は是非とも一読して、手元に備えておかれるのが良いと思う。

 

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基本的に医者が書く本も、鍼灸師が書く本も、思想や知識が偏っていることが多くて読むに堪えぬ内容が多いが、山田氏のスタンスは中医、西医に関しても比較的バランスが取れていて、嫌味も偏向もなく、文体も柔らくて非常に読みやすい。

 

やはり文章というモノは当人のアタマが透けて見えるようなモノで、その人の書いた文章を数行読んだだけでアタマの程度が知れてしまうから恐ろしい。私も恥ずかしげなくブログなどやっているわけだが、これはあくまでも独り言だから優劣などはどうでも良いし、批判されようが気にしない。

 

昔から日本では小児鍼一筋でやっている鍼灸師が少なからず存在するわけだけれど、私は以前から小児鍼だけに特化した鍼灸院に対して、何だか腑に落ちない嫌な感じの思い(軽蔑感みたいな)をずっと持っていたのであるが、今回この本を読んで、自分と同じような感覚を持つ医師がいることがわかった。

 

山田氏の考え方に完全に賛同するわけではないけれど、少なくとも他の医者や鍼灸師が言う論よりも的を射た正論だと思うので、ちょっとその文章を引用させて頂きたいと思う。ちなみに美容鍼に対しても、同様のことが言えると思う。

 

『わたしは実のところ、小児針はしていません。小児針がよいとされているような「病気」はおおむね、経過をみていれば自然によくなるものであったり、心理的なものが原因になっているので針以外にもっと適当な治療法があったり、からだの鍛錬の方が針よりもずっと根本的な治療法であったりと、そんな種類のものであるからです。わざわざ針灸治療に通わせるだけのメリットがあるのかどうか、わたしにははっきりわからないのです。(『はじめてであう小児科の本』山田真/2002年/福音館書店)』

 

日常的にみられる小児の病態の多くが心因性のものであることは医学的にも常識であるとは思うが、医学を掻い摘んだだけの似非医学しか学んでいない鍼灸師や、無知な親にとっては、小児針は無くてはならない存在なのかもしれない。

 

確かに私も希望があれば小児に針治療を施すことはあるが、基本的に子供の病気というものは家庭における環境因子が根因となっているパターンが多い(多くの場合、親に問題がある)から、針をやりたければローラー針などを買ってもらって、親自身に施術してもらうよう勧めている。鍼灸師の出番が必要になるのは小児麻痺のリハビリであったり、脳神経系統の病態くらいであろうと思う。

 

そもそも、小児は精神構造が未熟であるため、心理的反応が身体症状として現れやすい(ちなみに、成人していても幼児性が強く残っている場合は、難治性の病態が発現しやすい。)。そういう至極常識的なことを知っていれば、子供を無暗やたらに病院へ連れて行って検査したり、投薬したり、針をしたりすることはないだろうと思う。

 

しかし、小児針を生業としている鍼灸師からしてみれば、子供が定期的に通ってくれなければ鍼灸院が立ち行かなくなるわけで、「子供の健康維持には鍼灸が必要です。」なんていう方便が必要になってしまうのかもしれない。日本ではそういった鍼灸師が教壇に立っていたりするもんだから、どうにかしようにも多勢に無勢で、中々難しいものがある。

 

 

フリーペーパー

最近は患者さんが自分で灸の補助治療が出来るように、北京で集めた灸やら中医関連の資料を簡単にまとめて、無料で配布しようと企んでいる。内容的には一度私の頭の中にインプットした後、オリジナル的な要素を加えてアウトプットしたものだから、著作権的にみても問題はない。

 

主に北京で入手した某施灸取穴参考表をベースに資料をまとめていて、とりあえず内科、外科、産婦人科が終わったからあとは小児科と五官科を訳せば終わりだ。しかし誤字(绸が稠になっているとか)が所々にあるから、簡単そうな翻訳に見えても実際には結構時間がかかってしまっている。中国語はピンインが全く同じ漢字が沢山あるゆえか、タイプミスがよくあるようで、この点は日本語よりも厄介である。

 

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北京では素人向けの良質な鍼灸本が沢山売られているが、日本では、控えめな表現で言えば、宇宙の塵というか海の藻屑のような鍼灸本ばかりが売られているように思えてならない。ゆえに簡易的ではあるけれども、中国針灸のエッセンスを抽出した有用な鍼灸資料を患者さんに配って、個々人で役立ててもらおうと考えたのである(まぁフリーペーパーなのでそんなに大したものではないけれど)。特に重症の患者さんや、遠方から通院しておられる患者さんにとっては、微力ながらも自宅での補助治療用に役立つかもしれない。そのうちHPでも公開する予定なので、必要な方はプリントアウトをどうぞ。

 

毎日のように中国で発刊された針灸書を読み漁っていると、日本で出版されている鍼灸書の内容には肌の寒きを覚えることしばしばで、よくこんな本を出版するなぁ、と呆れてしまって買う気にもならないパターンが多い。しかも、そういう本に限って日本鍼灸界で多くの信者を集める『重鎮』だったりするもんだからどうにもならぬ。まぁ、だいたい最近の『カリスマ』やら『ゴッドハンド』なんてものは、業界やメディアが意図的に作り出して、大衆を都合の良いように操作するための装置みたいなもんだから、私は信用しない。

 

ちなみに私などは臨床経験10年に満たぬ新米鍼灸師の部類だという自覚が未だあるし、そんなに誇れるほど技量があるとは思えぬのだが、多くの患者が言うには、うちのように効果が出やすい鍼灸院は少ないらしい。実際に、うちへ治療に来る患者さんには以下のような発言をするケースが珍しくないから、本当に今の日本の鍼灸業界はどうなっているのだろうかと疑心暗鬼が生じてしまう。

 

「某所でかなり有名な鍼灸院に数年通って全く良くならなかったのに、こっちへ来たら数回で良くなった。」とか、「某サイトの口コミランキングNO.1、臨床歴40年超の院長がいる某市の鍼灸院で、必ず治るからと言われて、16万円分の回数券を買わされてしばらく通ったが全く変化がなかった。ここへ来たら1回目で変化が出て驚いた。」とか、「これまで鍼灸院は色々行ったけれどお宅が一番効いた。」とか、「今までの鍼灸治療は何だったんだろう。」とか、「雑誌で連載したり、本を沢山書いている某区の有名な鍼灸院へ行ったけれど全く効かなかった。」とか、挙げればキリがない。確かに私も神ではないから過去に治せなかった人も当然いるのだけれど、他の鍼灸院に比べれば、うちでの治療は遥かに治りが良いと言う患者が少なくない。

 

最近はそんな危機的な状況もあってか、玄人向けに講習会をやる同類の鍼灸師が増えているけれども、私はまだ数年は講習会をやるつもりはない。たまに講習会をやってくれという声もあるし、もっと効果的な鍼をする鍼灸師を増やすよう努めることも重要だとは思うけれども、とりあえず今後の私は針灸中医関係の本を読んだり翻訳して知識を深めつつ、もう少し臨床経験を積んでから、改めて講習会をやりたいと考えている。これまで何人かに教えて開業を手伝ったり、弟子をとってきたけれど、今後はもっと良い状況を整えてから、ちゃんとした技術やノウハウを伝えたいのである。

 

これまで出逢った患者をみてきた経験では、北京堂式的な鍼治療で救われる潜在的な患者は数え切れぬくらい存在するであろうことは容易に推測出来ている。ゆえにそのことに気が付いた志が高い鍼灸師は、北京堂のような治療法を普及させようと日々努めている。

 

私も見学希望の鍼灸師はなるべく受け入れるようにしているし、希望があればその都度、技術を包み隠さず公開・教授している(弟子だけに教える内容は除いて)。しかし、今の私の未熟な技量のままで講習会なんてやってしまったら、間接的に患者を害することにもなりかねないから、もう少し機が熟してからにしたいと考えている。

さよなら师奶

2014年12月、師匠のお母さんの訃報を人伝に聞いた。

 

2013年頃からお母さんは3度目の癌で自宅療養をしていた。2013年9月、私が島根での任務を終えて東京へ発つ前日、お母さんは私を御自宅へ招待して下さり、山陰での最後の晩餐として、山陰の名物を御馳走して下さったのだが、その頃からすでに衰えが見え始めていた。私が2010年に初めて島根入りした頃に比べると、癌が再発してからは体重の減少が著しく、急速に体力が落ちてきている様子だったので、何となく死期は悟っていた。

 

人はいつか亡くなるものだけれど、やはり何かしらの関係にあった人の訃報を不意に聞かされたりすると、何とも言えぬ空虚感が心中にモヤモヤと湧き上がってくる。

 

結局、葬式が終わってから訃報を聞かされたこともあって、2015年2月に島根へ飛ぶことにした。49日は過ぎているから、お父さんの気持ちも少し落ち着いていて、私が挨拶に行くのには適している頃合いだろうと予想していた。

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北京堂鍼灸はいまや全国的な広がりを見せる鍼灸流派だが、元々は約30年前に島根の東出雲で、中医翻訳家でもある浅野周先生が始められた鍼灸院にルーツがある。現在も9号線沿いに「北京堂鍼灸」の看板を掲げる一軒家を望めるが、浅野先生は今は東京の葛飾で営業されているため、東出雲で北京堂の治療を受けることは出来ない。

 

しばらく島根でゆっくりしたいところだったが、患者を抱えているとそう長く休むことは出来ないので、日帰りすることにした。

 

羽田から午前の便で米子空港まで行って、レンタカーを借りてから東出雲へ向かった。島根には3年以上住んでいたから、大方の地理は頭に入っている。米子空港から大根島を抜けて、裏道を通れば35分くらいで東出雲に到着する。

 

事前に連絡していたので、お父さんはスンナリと家の中へ通してくれた。寂しそうに見えたが、いつも通りの素振りだった。とりあえず東京から持参したお供え物を渡し、仏前で手を合わせた。もうお骨は墓に移してあるとのことで、お父さんを車に乗せて、一緒に墓参りすることにした。線香は持参していたが、墓前に供える花がなかったので、近所の「まるごう」というスーパーで、花と酒を買うことにした。

 

墓地は最近出来たという新しい区画にあって、これまで見たことが無いタイプの墓が並んでいた。線香に火を点けて、花と酒をお供えして、しばしお父さんと会話してから、墓地を後にした。

 

もう昼が近かったので、お父さんを誘って昼飯をご一緒することにした。やはり、お父さんは長年のパートナーであるお母さんを失って、少なからず悲壮感が漂っていたから、半日でも話し相手が出来るのは良いだろうと思った。

 

昼食は東出雲町のお隣、安来市(やすぎし)にある蕎麦屋へ行くことにした。東出雲から車で10分くらい、9号線沿いにある、まつうら、という蕎麦屋だ。

 

出雲蕎麦といえば、灰褐色でザラザラした舌触りの割子(わりご)が有名だが、まつうらの蕎麦は出雲蕎麦と更科蕎麦の中間みたいな感じで、東京人が好みそうなタイプの蕎麦である。お父さんも過去に何回か来たことがあるそうで、美味いと喜んでいた。

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蕎麦を食べながら色々な想い出話をした後、せっかくだからお母さんが好きだった出雲大社へお参りしようということになった。お父さんは車の免許を持っていないらしく、普段の移動は専ら自転車で、遠出する時はお母さんが運転する車に同乗していたようだった。お母さんが体調を崩して運転が出来なくなってからは、しばらく遠出はしていなかったらしく、出雲大社へのドライブを殊の外喜んでいるようだった。

 

お父さんが食べているうちに会計を済ませ、先に払っておきましたと告げると、「昼食は私がおごるつもりでした。では越野の天ぷらをお土産に買ってあげましょう」と言うので、出雲大社へ行く前に寄り道することになった。

 

松江といえば茶菓子が有名だが、魚肉を加工したかまぼこや、天ぷら(魚肉のすり身を蒸して揚げたモノ。衣を付けて揚げた天ぷらではない。)もマイナーながら売れているらしい。また、松江の御土産ではあごの野焼き(春頃から日本海を北上してくる飛魚をすり身にして、山陰の地酒などを混ぜて焼いた「ちくわ」みたいなモノ)や、スト巻き(かまぼこをストローで巻いたモノ)がメジャーだが、私は最もマイナーな天ぷらが好きである。

 

中海(宍道湖の隣にある汽水湖)に隣接する東出雲町には、好立地ゆえかかつては魚肉を加工する工場が林立していたらしいが、現在は数か所を残すのみで、ひっそりと営業しているようだった。お母さんは大の天ぷら好きで、特に越野という会社の天ぷらを好んで食べていた。私に松江の天ぷらの美味しさを教えてくれたのはお母さんだった。

 

私が松江で北京堂を経営していた頃は、お父さんが鍼治療に訪れる度に、付き添いで来たお母さんが越野の天ぷらを御土産に持参してくれて、「都会の人はこういうものを食べたことが無いでしょう」といつも気を使って下さったのだった。

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越野のかまぼこ工場は中海湖畔からすぐの場所にある。基本的には工場での直販はしていないようだが、地元民は購入出来るようだった。お父さんは慣れた感じで天ぷらを2袋購入し、私に持たせてくれた。工場を出ると見知らぬ軽自動車が停めてあったのだが、お父さんは誤ってそれに乗り込もうとしていた。

 

松江から出雲大社へは、宍道湖の北側を走る湖北線と、南側の9号線、さらに南側の山陰道、3つのルートがある。生前、お母さんは「慣れない高速道路を緊張しながら走るよりも、宍道湖の湖面にユラユラと浮かぶカモを眺めながらゆったり運転する方が、精神的に楽で良いのよ。」と言っていた。

 

しかし、お父さんは高齢で長時間車に座るのが辛そうだったので、往路だけは山陰道を使った最短のルートで出雲大社へ向かい、復路はお母さんの好きだったルートを使うことにした。ちなみに復路だと宍道湖が左側に位置するので、助手席から湖上をのんびりと泳ぐカモが見えやすい。

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出雲大社平成の大遷宮がやっと終わってスッカリ綺麗になっていたが、鳥居の修復工事が行われていて、正面からは入れなかった。とりあえず平日の出雲大社は参拝者が少なくて快適だった。 

 

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あまり知られてはいないが、出雲大社宮司は元々は千家さんと北島さん両家が交替でお勤めしていて、イロイロあった後、現在は千家さんが出雲大社宮司となっている。そして、これに不服な北島さんは、出雲大社のすぐ隣に社を建て、傍から大国主命をお守りしている、という構図になっている。ゆえに地元民以外にはほとんど知られていないようだが、出雲大社のすぐ右手には、いわば「裏出雲大社」が存在する。お母さんは北島さんの方に熱心だったので、出雲大社をお参りした後は、北島さんの所へお参りしてから、帰ることにした。

 

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何だかんだで出雲大社を出て、東出雲に戻る頃には、夕暮れが迫っていた。束の間のドライブを楽しんだ後、北京堂の生誕地でお父さんとお別れした。その後、大根島を経由して米子へ向かう途中、中海の向こうへ沈む夕日が綺麗だったので、空き地に車を停めて、しばし夕日を眺めることにした。

 

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