東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

フリーペーパー

最近は患者さんが自分で灸の補助治療が出来るように、北京で集めた灸やら中医関連の資料を簡単にまとめて、無料で配布しようと企んでいる。内容的には一度私の頭の中にインプットした後、オリジナル的な要素を加えてアウトプットしたものだから、著作権的にみても問題はない。

 

主に北京で入手した某施灸取穴参考表をベースに資料をまとめていて、とりあえず内科、外科、産婦人科が終わったからあとは小児科と五官科を訳せば終わりだ。しかし誤字(绸が稠になっているとか)が所々にあるから、簡単そうな翻訳に見えても実際には結構時間がかかってしまっている。中国語はピンインが全く同じ漢字が沢山あるゆえか、タイプミスがよくあるようで、この点は日本語よりも厄介である。

 

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北京では素人向けの良質な鍼灸本が沢山売られているが、日本では、控えめな表現で言えば、宇宙の塵というか海の藻屑のような鍼灸本ばかりが売られているように思えてならない。ゆえに簡易的ではあるけれども、中国針灸のエッセンスを抽出した有用な鍼灸資料を患者さんに配って、個々人で役立ててもらおうと考えたのである(まぁフリーペーパーなのでそんなに大したものではないけれど)。特に重症の患者さんや、遠方から通院しておられる患者さんにとっては、微力ながらも自宅での補助治療用に役立つかもしれない。そのうちHPでも公開する予定なので、必要な方はプリントアウトをどうぞ。

 

毎日のように中国で発刊された針灸書を読み漁っていると、日本で出版されている鍼灸書の内容には肌の寒きを覚えることしばしばで、よくこんな本を出版するなぁ、と呆れてしまって買う気にもならないパターンが多い。しかも、そういう本に限って日本鍼灸界で多くの信者を集める『重鎮』だったりするもんだからどうにもならぬ。まぁ、だいたい最近の『カリスマ』やら『ゴッドハンド』なんてものは、業界やメディアが意図的に作り出して、大衆を都合の良いように操作するための装置みたいなもんだから、私は信用しない。

 

ちなみに私などは臨床経験10年に満たぬ新米鍼灸師の部類だという自覚が未だあるし、そんなに誇れるほど技量があるとは思えぬのだが、多くの患者が言うには、うちのように効果が出やすい鍼灸院は少ないらしい。実際に、うちへ治療に来る患者さんには以下のような発言をするケースが珍しくないから、本当に今の日本の鍼灸業界はどうなっているのだろうかと疑心暗鬼が生じてしまう。

 

「某所でかなり有名な鍼灸院に数年通って全く良くならなかったのに、こっちへ来たら数回で良くなった。」とか、「某サイトの口コミランキングNO.1、臨床歴40年超の院長がいる某市の鍼灸院で、必ず治るからと言われて、16万円分の回数券を買わされてしばらく通ったが全く変化がなかった。ここへ来たら1回目で変化が出て驚いた。」とか、「これまで鍼灸院は色々行ったけれどお宅が一番効いた。」とか、「今までの鍼灸治療は何だったんだろう。」とか、「雑誌で連載したり、本を沢山書いている某区の有名な鍼灸院へ行ったけれど全く効かなかった。」とか、挙げればキリがない。確かに私も神ではないから過去に治せなかった人も当然いるのだけれど、他の鍼灸院に比べれば、うちでの治療は遥かに治りが良いと言う患者が少なくない。

 

最近はそんな危機的な状況もあってか、玄人向けに講習会をやる同類の鍼灸師が増えているけれども、私はまだ数年は講習会をやるつもりはない。たまに講習会をやってくれという声もあるし、もっと効果的な鍼をする鍼灸師を増やすよう努めることも重要だとは思うけれども、とりあえず今後の私は針灸中医関係の本を読んだり翻訳して知識を深めつつ、もう少し臨床経験を積んでから、改めて講習会をやりたいと考えている。これまで何人かに教えて開業を手伝ったり、弟子をとってきたけれど、今後はもっと良い状況を整えてから、ちゃんとした技術やノウハウを伝えたいのである。

 

これまで出逢った患者をみてきた経験では、北京堂式的な鍼治療で救われる潜在的な患者は数え切れぬくらい存在するであろうことは容易に推測出来ている。ゆえにそのことに気が付いた志が高い鍼灸師は、北京堂のような治療法を普及させようと日々努めている。

 

私も見学希望の鍼灸師はなるべく受け入れるようにしているし、希望があればその都度、技術を包み隠さず公開・教授している(弟子だけに教える内容は除いて)。しかし、今の私の未熟な技量のままで講習会なんてやってしまったら、間接的に患者を害することにもなりかねないから、もう少し機が熟してからにしたいと考えている。

さよなら师奶

2014年12月、師匠のお母さんの訃報を人伝に聞いた。

 

2013年頃からお母さんは3度目の癌で自宅療養をしていた。2013年9月、私が島根での任務を終えて東京へ発つ前日、お母さんは私を御自宅へ招待して下さり、山陰での最後の晩餐として、山陰の名物を御馳走して下さったのだが、その頃からすでに衰えが見え始めていた。私が2010年に初めて島根入りした頃に比べると、癌が再発してからは体重の減少が著しく、急速に体力が落ちてきている様子だったので、何となく死期は悟っていた。

 

人はいつか亡くなるものだけれど、やはり何かしらの関係にあった人の訃報を不意に聞かされたりすると、何とも言えぬ空虚感が心中にモヤモヤと湧き上がってくる。

 

結局、葬式が終わってから訃報を聞かされたこともあって、2015年2月に島根へ飛ぶことにした。49日は過ぎているから、お父さんの気持ちも少し落ち着いていて、私が挨拶に行くのには適している頃合いだろうと予想していた。

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北京堂鍼灸はいまや全国的な広がりを見せる鍼灸流派だが、元々は約30年前に島根の東出雲で、中医翻訳家でもある浅野周先生が始められた鍼灸院にルーツがある。現在も9号線沿いに「北京堂鍼灸」の看板を掲げる一軒家を望めるが、浅野先生は今は東京の葛飾で営業されているため、東出雲で北京堂の治療を受けることは出来ない。

 

しばらく島根でゆっくりしたいところだったが、患者を抱えているとそう長く休むことは出来ないので、日帰りすることにした。

 

羽田から午前の便で米子空港まで行って、レンタカーを借りてから東出雲へ向かった。島根には3年以上住んでいたから、大方の地理は頭に入っている。米子空港から大根島を抜けて、裏道を通れば35分くらいで東出雲に到着する。

 

事前に連絡していたので、お父さんはスンナリと家の中へ通してくれた。寂しそうに見えたが、いつも通りの素振りだった。とりあえず東京から持参したお供え物を渡し、仏前で手を合わせた。もうお骨は墓に移してあるとのことで、お父さんを車に乗せて、一緒に墓参りすることにした。線香は持参していたが、墓前に供える花がなかったので、近所の「まるごう」というスーパーで、花と酒を買うことにした。

 

墓地は最近出来たという新しい区画にあって、これまで見たことが無いタイプの墓が並んでいた。線香に火を点けて、花と酒をお供えして、しばしお父さんと会話してから、墓地を後にした。

 

もう昼が近かったので、お父さんを誘って昼飯をご一緒することにした。やはり、お父さんは長年のパートナーであるお母さんを失って、少なからず悲壮感が漂っていたから、半日でも話し相手が出来るのは良いだろうと思った。

 

昼食は東出雲町のお隣、安来市(やすぎし)にある蕎麦屋へ行くことにした。東出雲から車で10分くらい、9号線沿いにある、まつうら、という蕎麦屋だ。

 

出雲蕎麦といえば、灰褐色でザラザラした舌触りの割子(わりご)が有名だが、まつうらの蕎麦は出雲蕎麦と更科蕎麦の中間みたいな感じで、東京人が好みそうなタイプの蕎麦である。お父さんも過去に何回か来たことがあるそうで、美味いと喜んでいた。

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蕎麦を食べながら色々な想い出話をした後、せっかくだからお母さんが好きだった出雲大社へお参りしようということになった。お父さんは車の免許を持っていないらしく、普段の移動は専ら自転車で、遠出する時はお母さんが運転する車に同乗していたようだった。お母さんが体調を崩して運転が出来なくなってからは、しばらく遠出はしていなかったらしく、出雲大社へのドライブを殊の外喜んでいるようだった。

 

お父さんが食べているうちに会計を済ませ、先に払っておきましたと告げると、「昼食は私がおごるつもりでした。では越野の天ぷらをお土産に買ってあげましょう」と言うので、出雲大社へ行く前に寄り道することになった。

 

松江といえば茶菓子が有名だが、魚肉を加工したかまぼこや、天ぷら(魚肉のすり身を蒸して揚げたモノ。衣を付けて揚げた天ぷらではない。)もマイナーながら売れているらしい。また、松江の御土産ではあごの野焼き(春頃から日本海を北上してくる飛魚をすり身にして、山陰の地酒などを混ぜて焼いた「ちくわ」みたいなモノ)や、スト巻き(かまぼこをストローで巻いたモノ)がメジャーだが、私は最もマイナーな天ぷらが好きである。

 

中海(宍道湖の隣にある汽水湖)に隣接する東出雲町には、好立地ゆえかかつては魚肉を加工する工場が林立していたらしいが、現在は数か所を残すのみで、ひっそりと営業しているようだった。お母さんは大の天ぷら好きで、特に越野という会社の天ぷらを好んで食べていた。私に松江の天ぷらの美味しさを教えてくれたのはお母さんだった。

 

私が松江で北京堂を経営していた頃は、お父さんが鍼治療に訪れる度に、付き添いで来たお母さんが越野の天ぷらを御土産に持参してくれて、「都会の人はこういうものを食べたことが無いでしょう」といつも気を使って下さったのだった。

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越野のかまぼこ工場は中海湖畔からすぐの場所にある。基本的には工場での直販はしていないようだが、地元民は購入出来るようだった。お父さんは慣れた感じで天ぷらを2袋購入し、私に持たせてくれた。工場を出ると見知らぬ軽自動車が停めてあったのだが、お父さんは誤ってそれに乗り込もうとしていた。

 

松江から出雲大社へは、宍道湖の北側を走る湖北線と、南側の9号線、さらに南側の山陰道、3つのルートがある。生前、お母さんは「慣れない高速道路を緊張しながら走るよりも、宍道湖の湖面にユラユラと浮かぶカモを眺めながらゆったり運転する方が、精神的に楽で良いのよ。」と言っていた。

 

しかし、お父さんは高齢で長時間車に座るのが辛そうだったので、往路だけは山陰道を使った最短のルートで出雲大社へ向かい、復路はお母さんの好きだったルートを使うことにした。ちなみに復路だと宍道湖が左側に位置するので、助手席から湖上をのんびりと泳ぐカモが見えやすい。

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出雲大社平成の大遷宮がやっと終わってスッカリ綺麗になっていたが、鳥居の修復工事が行われていて、正面からは入れなかった。とりあえず平日の出雲大社は参拝者が少なくて快適だった。 

 

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あまり知られてはいないが、出雲大社宮司は元々は千家さんと北島さん両家が交替でお勤めしていて、イロイロあった後、現在は千家さんが出雲大社宮司となっている。そして、これに不服な北島さんは、出雲大社のすぐ隣に社を建て、傍から大国主命をお守りしている、という構図になっている。ゆえに地元民以外にはほとんど知られていないようだが、出雲大社のすぐ右手には、いわば「裏出雲大社」が存在する。お母さんは北島さんの方に熱心だったので、出雲大社をお参りした後は、北島さんの所へお参りしてから、帰ることにした。

 

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何だかんだで出雲大社を出て、東出雲に戻る頃には、夕暮れが迫っていた。束の間のドライブを楽しんだ後、北京堂の生誕地でお父さんとお別れした。その後、大根島を経由して米子へ向かう途中、中海の向こうへ沈む夕日が綺麗だったので、空き地に車を停めて、しばし夕日を眺めることにした。

 

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