東京つばめ鍼灸院長のブログ( ´∀`)

完全無所属、無宗教、東京つばめ鍼灸院長が不定期に更新中。

新聞奨学生時代の思い出(8)

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貧しい苦学生に見えたのか、集金中に突然食べ物を渡されることがよくあった。

 

特に、古い戸建てが密集する地域では、80歳前後のおばあさんが食べ物を差し出す確率が高く、また同時に、それは賞味期限切れの食べ物である確率も高かった。

 

大きな一軒家に独りで住んでいるおばあさんなどは、話し相手が欲しいのか、集金時に私を引き留めて長話に付き合わせようとすることも多く、月内80%の回収率を達成するためには、如何にして、その場から脱するかということが非常に重要だった。それゆえ、集金開始日は、まずは高齢者の少ない、確実に集金できる家から攻めてゆくのが鉄則だった。

 

住宅街の外れに、さびれたアパートの1階を住居兼ピアノ教室にしていた、80過ぎくらいのおばあさんがいた。おばあさんには少し痴呆症のような兆候がみられたが、ピアノ教室は現役で、細々と営業している様子だった。

 

ある日、私が集金で伺うと、唐突に「あなたピアノ教えてあげるわよ、タダでいいわ」と言った。私は学校の勉強で忙しく、ピアノを弾いているヒマなどなかったので、丁重にお断りしたものの、その後、集金に行くたびに同じことを言われるもんだから、1度だけピアノを弾いてみることにした。

 

おばあさんの住むアパートは、玄関とキッチンが直結しており、ほぼ足の踏み場がないくらいに雑然としていた。

 

おばあさんは、私にキッチンに置かれた小さな椅子に腰掛けるように言い、昭和的な小さなガラスのコップに、何故か人参ジュースを注いで私に差し出した。カゴメ野菜生活100だった。私は人参ジュースを一気に飲み干し、おばあさんの指示があるまでジッとしていることにした。

 

キッチンの奥には、4畳半の部屋の壁をぶち抜いて連結させたような長細い部屋があり、左の壁側にはアップライトのピアノが置かれていた。おばあさんは部屋の右寄りに置かれたソファーに座るよう、私に指示した。

 

ソファーと同じ高さのガラス製のテーブルの上には、古びたアルバムが数冊置いてあり、おばあさんはおもむろにアルバムをめくると、頼んでもいないのに個々のモノクロ写真についての解説を始めた。

 

どうやら、おばあさんは、かつては有名なピアニストらしかった。写真には若かりし頃のおばあさんと、どこぞの外国人やら、要人らしき人物やらが一緒に写っていたが、オルタナティブロックに関する素養しか持ち合わせていない、非文明人の私には、その写真に写る人々の偉大さなど微塵もわからなかった。

 

おばあさんはひと通りアルバムをめくったあと、皺枯れた自分の手を見つめ、「今はもうピアノが弾けなくなったのよ」と悲しそうに呟(つぶや)いた。当時の私は医学的知識など皆無だったから、おばあさんの手がどのような病態なのかは理解できなかったけれども、今思えば典型的なヘバーデン結節だった(ヘバーデン結節は医学的には原因が不明で、手を酷使する中年以降の女性に多い病態であるが、根本的な原因は前腕筋群の慢性的な異常収縮にあると推察される)。

 

私は、そんな手でどうやってピアノを教えるのかと思ったが、おばあさんは私をピアノの前に座らせ、「好きに弾いてみなさい」と言った。ピアノなんて弾いたことがなかったから、好きに弾いてみろと言われても、そう簡単に弾けるものではない。

 

私がロクに指を動かせずに困っていると、おばあさんは『子供のバイエル』と書かれた黄色い表紙の本を譜面台に広げ、「私が棒で指した場所を弾いてみなさい」と言って、鍵盤を棒で叩き始めた。

 

しばらく、言われたままに同じフレーズを弾いていると、率直に言って耄碌(もうろく)ババアにしか見えなかったおばあさんが、まるでピアノの達人の霊に憑りつかれたかのように、キリっとした表情になっていることに気が付いた。

 

そのあまりのギャップの大きさに驚きつつ、必死に鍵盤を叩いていると、おばあさんは突然、「あなた中々いいわね!また来なさい!」と叫んだ。

 

その後、適当に理由をつけて、おいとま申し上げることにしたわけだが、おばあさんはおもむろにバイエルの本を閉じて、「これで練習しなさい」と私に差し出した。

 

ピアノを持っていないのにどうやって練習すればいいのか、と言いそうになったが、キリっとしっぱなしのおばあさんに反論することもできず、お礼を言って本を受け取り、最初で最後のピアノ教室をあとにした。

新聞奨学生時代の思い出(7)

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新聞奨学生になって1年くらい経った頃、集金業務をすることになった。そうは言っても学業との兼ね合いで、100%の回収には無理があったから、月内に80%まで回収してくれればいいよ、と店長が言ってくれた。私が月内に回収できなかった分は、社員がやってくれることになった。集金手当は毎月3万円だった。

 

集金業務は毎月25日から始まる。給与支給日が25日の会社が多いことに合わせているらしかった。新聞代金の支払い方法は配達員による戸別集金、クレジットカード払い、口座引き落としの3種類があった。顧客の90%以上は集金を希望していたが、すんなり支払ってくれるのはそのうち70%くらいで、20~30%の顧客は居留守を使ったり、ほとんど在宅していなかったり、連絡がつかなかったりで、毎月回収するのが大変だった。

 

ある日、私はTエステートと呼ばれる団地での集金を終え、販売店に戻って、集めたお金を机の上に広げて数えていた。計算が終わり、領収書の半券と回収した現金を綺麗に揃えて事務所に提出し、事務所からの確認OKが出るまで、しばし店内でマッタリすることにした。

 

すると、大学中退後、パチスロ中毒になって新聞屋から抜け出せなくなっていた、私より2歳年下の通称ホーリーが集金から戻ってきて、店内でくつろいでいる私を見て、驚いたように、「あれ!? Q太郎さん、さっきTエステートの4号棟にいましたよね?」と言った。どうやらホーリーは、私がまだ集金中だと思い込んでいたもんだから、販売店内に瞬間移動したかのような私を見て、かなり混乱している様子だった。

 

私が、「いや、今日は4号棟には行ってないけど」と答えると、ホーリーは首を傾げながら、「おかしいなぁ、あの声は絶対Q太郎さんの声だったんだけどなぁ」と言い、おかしいなぁ、おかしいなぁと、稲川淳二のように何度も呟いていた。

 

Tエステートは、階段踊り場の両脇に玄関ドアが対面している昭和的な団地で、下の階の踊り場にいる人の声は直上に響くため、玄関前で会話していると、上階までかなりクリアに声が聞こえてくる構造だった。ましてや、毎日顔を合わせている仲間の声を聴き間違えるはずがなかった。

 

昔から、世界には自分にそっくりな人が3人いるとか、時空の歪みなどでパラレルワールドに生きている自分の分身が突如として現れることがあるとか、強い念を抱いた生霊または死霊が自由自在に飛んで行くなどという、俄(にわ)かには信じがたい話がある。

 

いわゆる、ドッペルゲンガー(Doppelgänger)とか、『雨月物語』の「菊花の約」などに見られるような現象だ。しかしながら、私は以前にも左様な経験があったから、さすがにホーリーの話を聞いて、気味が悪くなった。

 

1度目は中学生の時だ。同じクラスの同級生が、ある日、私がKOデパートの中で見知らぬ女と歩いているのを目撃した、と言った。しかし、私はその日は外出しておらず、KOデパートにも行ってなかった。そもそも、KOデパートは、中学生が遊びに行く場所ではなかった。

 

2度目は某カラオケ店でバイトしていた時だ。あるバイト仲間がカラオケ店の店頭でキャッチをしている時、彼の目の前を私が通り過ぎようとしていたため、声をかけたが無視された、と言った。しかし、私はその日は風邪で寝込んでおり、外出する気力など微塵もなかった。そもそも、カラオケ店前の歩道は自転車1台がやっと通れるくらいの幅しかなく、人はかなり近距離ですれ違うはずだから、知り合いを見間違えるはずがなかった。全く奇妙な話だった。

新聞奨学生時代の思い出(6)

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私が所属していた新聞販売店には、様々な事情を抱えた人が多く集まっていた。

 

刑務所から出所したばかりの男、怪しいモノの運び屋をやっていた男、田舎で何かトラブルを起こして逃げてきた男、ギャンブル依存症で借金取りから逃げてきた男、多重債務から逃れるため1000km以上離れた田舎から逃げてきた偽名男、某宗教を脱会して追っ手から逃げてきた男、古い寺が集まる某観光地で新聞配達をしていたが過度の霊障から逃れるため異動してきた男など、社会であぶれてしまったような野郎が集まる巣窟のようになっていた。

 

それでも、みな様々な事情を抱えている者同士であったせいか、平時は和気藹々としていて、アウトロー同士の妙な連帯感というか、安心感があった。

 

とは言っても、男ばかりの職場であったから、お互いストレスが溜まってくれば殴り合いを始めることもあり、特に朝刊時は喧嘩が始まることが多かった。

 

朝刊時、2時までに出勤してこない者がいると、誰かしら起こしに行かねばならないという、暗黙のルールがあった。単調な毎日に嫌気がさしたのか、テーブルの上に「追わないで下さい」というメモを残したまま、失踪する者がたまにいた。ちなみに、失踪した奴のことは隠語で、「飛んだ」と表現していた。

 

ちゃんと出勤してきていても安心はできなくて、朝刊配達の準備をしている最中、突然黒塗りの車が販売店の前に急停車し、無言で連れ去られる配達員がいたり、酔いが醒めぬまま配達して、エレベーター内で寝てしまう配達員がいたり、夕刊時には、カブに新聞を積んだまま居酒屋に入って出て来なくなる配達員がいたりした。

 

朝刊配達時、特に深夜2~4時頃は、基本的に誰も出歩いておらず、たまに他の新聞屋のカブにすれ違うくらいだった。区域によっては背筋がゾッとしっぱなしな、いわゆる心霊スポットが点在する区域もあって、毎日恐怖に怯えながら配達している者もいた。

 

私は新聞配達員になるまで、心霊系の話には懐疑的なスタンスだったけれど、生麦事件ならぬ「生首事件」に出くわしてからは、稲川淳二の話もあながち作り話ではないな、と思うようになった。

 

我々が所属していた新聞販売店は、某県沿岸の某市全体を配達区域としており、全部で14区域に分割されていた。その中でも、第2区は旧市街地に位置し、T線某駅の西側を配達範囲としていたが、深夜2時頃とあるマンションで新聞を配達していたところ、突如として女の生首が出現した、と訴える配達員が現れた。

 

その話を聞いて、最初はみな半信半疑であったが、配達員の怖がり方が尋常ではなかったので、霊感が全くないという古株の配達員が、代わりに第2区を担当することになった。

 

その後、数か月は何事もなく、みな「生首事件」を忘れかけていた頃、高校を出たばかりの青年が新聞奨学生として入社し、いわくつきの第2区を担当することになった。

 

もちろん、新聞販売店にとっては希少な若手配達員であったから、第2区で「生首事件」があったことは、新入り青年には内緒にしておくことになった。 

 

新入り青年が独りで配達ができるようになるまで、2週間くらいは古株の配達員が一緒に配達して回ることになった。この間、特に異常は見られず、物覚えの良い新入り配達員は、予定よりも数日早く、単独配達デビューとなった。 

 

結局、デビュー初日、新入り配達員は7時を過ぎた頃やっと、第2区の朝刊配達を終えて戻ってきた。しかし、販売所に戻って来るや否や、「生首が出ました!」と叫んだ。 

 

配達を終え、販売所内で各自マッタリと過ごしていた配達員たちはみなギョッとして、新入り青年を囲むようにして集まってきた。

 

新入り青年曰く、いつも通り、某マンションの前にカブを停め、集合ポストに新聞を放り込んだところまでは問題がなかった。しかしながら、マンション内部で後ろに気配を感じて振り向くと、オートロックの玄関あたりに、若い女の生首が浮いていた。

 

驚いた新入り青年は、すぐさまマンションを飛び出し、カブにまたがって走り去ろうとしたわけだが、再び気配を感じてサイドミラーを見やると、同じ顔の生首が後方に浮かんでおり、こちらを見てニヤリと微笑んでいたのだった。

 

みな、新入り青年の話を聞き終わると、黙り込んでしまった。

 

何故なら、この新入り青年には「生首事件」についての情報は一切与えていなかったし、何より、新入り青年が女の生首に遭遇した状況が、以前、我々が第2区の前担当者から聞いていた状況とほぼ同じだったからだ。 

 

結局、新入り青年は第2の「生首事件」に遭遇した直後、すぐに辞めてしまった。

新聞奨学生時代の思い出(5)

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新聞販売店はその名の通り、基本的には新聞販売による収入がメインとなっていたが、実際には新聞に挟む折込チラシの売り上げが、大きな収入源となっていたようだった。記憶は定かではないが、1枚あたり3円くらいだったと思う。

 

売店での総配達部数は5000部くらいだったが、3000部前後のチラシを販売店に持ち込むクライアントが多く、チラシの内容によって高級住宅街や新興住宅街、旧市街地などへと、分けて配達するよう指示が出ることが多かった。 

 

チラシは配達日の1週間ほど前までに販売店に持ち込まれ、我々が朝刊の配達を終えた後、朝の9時~15時頃まで、パートのオバちゃんたちが、機械でガシャガシャと音を立てながら、ブロックになった数個~40個あまりのチラシの塊を、1枚ずつにバラして組み合わせる、という作業を延々と続けるのがお決まりだった。 

 

その後、配達区域ごとに分けられたチラシを、我々が深夜1時頃に運ばれてくる出来立てホヤホヤの新聞に1部ずつ手で挟み込み、新聞配達専用モデルの屈強なプレスカブが、うめき声を上げるくらいの量の新聞を前かごと荷台に積み込み、毎日マラソン大会に参加しているような気持ちで配達に出かけるのだった。 

 

配達時に雨が降りそうだったり、すでに雨が降っていれば、ジョイナーと呼ばれる専用のラッピングマシーンで、新聞を1部ずつラッピングしなければならなかった。400部あまりの新聞をすべてラッピングするとなると、ラッピング作業だけで軽く30分以上は時間が余計に取られた。

 

さらに、ラッピングのビニールによって新聞同士の摩擦抵抗が減り、積載時に滑りやすくなるため、新聞とチラシの厚みが増せば増すほど、1度に荷台に積める新聞の量が減り、積み込み作業が増えて、配達時間が1~2時間程度遅れてしまうのが常だった。 

 

新聞のページ数が30ページ以上、挟み込むチラシが30枚以上になることが多い週末に、土砂降りの雨が降るのは最悪のケースで、通常6時前に配達が終わる区域でも、8時近くまで配達していることもままあった。それゆえ、金曜日か土曜日ばかりを狙って、休み希望を出す配達員が少なくなかった。

 

各区域ごとに順路帳と呼ばれる、購読契約者の住所と氏名が記された台帳があって、配達者は基本的にこの順路帳に記されている顧客順で配達しなければならなかった。順路帳には顧客の個人情報の他に、「5時必着(朝5時までの配達厳守、の意)」とか、「遅れ即止(配達遅れたら即解約される、の意)」など、各顧客ごとの注意事項も記されていて、常に時間を気にしながら配達しなければならなかった。

 

毎日、鍼灸学校夜間部の授業を終えて帰宅すると、いつも22時を過ぎていた。その後、2~3時間ほど仮眠して、深夜の1時すぎに起床して、新聞を配達するのが常だった。

 

まだひっそりと寝静まっているマンションを出て、長距離トラックやタクシーばかりが無味乾燥に行き交う、深夜の国道横の駐車場に停めておいたカブにまたがり、空を見上げ、間もなく雨が降りそうな雲行きに見えたり、雨が降る前特有のアスファルトの臭いがすると、とにかく気分が沈んで、恵まれぬ境遇に嫌気がさしたものだった。 

新聞奨学生時代の思い出(4)

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新聞屋にとって、1年で最も団結力が高まるのは、元旦までの1週間だった。元旦の新聞は1年の始まりということもあり、毎年、新聞社の威信をかけた豪華版となるのが通例だった。それゆえ、所長や店長からは、不吉であるから元旦だけは不着、誤配をしてくれるなと、耳が痛くなるほど聞かされていた。

 

通常、新聞は月曜日が最も薄く、週末に近づくほど厚くなる。それでも、紙面のページ数は30ページほど、チラシは多くても20枚ほどだった。しかし、元旦は紙面もチラシもその数倍の量に跳ね上がるから、1週間前からパートのおばちゃんたちが、顧客から持ち込まれた各種チラシを機械でバラして組み直し、1セットずつに仕上げた分を、販売店の隅に積み上げてゆくのだった。

 

このチラシをただでさえ分厚い元旦の新聞に挟み込むと、週刊誌以上の厚さになり、ポストに投函できなくなる。したがって我々配達員は、「賀正」と印字された取っ手付きの専用のビニール袋に、新聞とチラシを1部ずつ入れて配達することになるわけだが、ポストには入りきらない巨大さゆえ、1週間前から、ポスト以外の置き場所を調査したり、平時よりも転送場所を増やして、どこに何部くらい転送すれば効率的に配達できるかを事前に相談し合うことになっていた。

 

元旦の配達はとにかく大変だった。しかし、大半の顧客は新聞がいつもよりも遅れて届くことを承知していたから、精神的には楽だった。

 

通常、朝刊の配達は深夜2時頃に開始して、朝6時前には終わるのだが、元旦の新聞は平時の10倍くらいの厚みがあったため、約400部を全て配り終わる頃には、8時をとうに回っていた。

 

配達が終わって販売店に戻ると、ニコニコしながら待っていた所長が、「はい、お疲れさま」と言って、5000円が入ったポチ袋を1人1人に手渡し、所長の奥さんが作ってくれたおせちらしからぬ、おせちらしき料理を食べるのが恒例になっていた。何故か、カレーは、元旦のテッパンメニューだった。

 

当時、新聞屋に集まる人々は、その多くが社会からはみ出したり、恵まれない生活環境で育ってきたような、独身男ばかりだった。

 

それゆえ、所長の奥さんがふるまう凡庸な手料理であっても、とても温かみが感じられ、元旦の販売店の中は、いつものピリピリ感が皆無な、和やかな空間に変化するのだった。

 

1年で最も大変な朝刊配達を、全員で協力して無事終えることができた安堵感や、1年で唯一の完全なる新聞休刊日を翌日に控えた嬉しさなどから、みな独特の和やかさを醸し出していて、毎日お世話になっているコンビニ弁当には目もくれず、大そう幸せそうに、おせち料理をほおばるのだった。

 

所長が箱買いしてきた缶ビールや缶ジュースは飲み放題だったから、食後、ジャンバーのポケットに缶を何本も詰め込んで、そそくさと帰る配達員も数人存在した。

新聞奨学生時代の思い出(3)

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不着、誤配をほとんどしない優秀な配達員は、しばらく経つと、どの区域にも属さない「代配者」として、配達を任されるようになる。つまり、ある区域の担当者が休んだり、欠員が出るたび、その区域の配達を代わりに請け負う、フリーランスのような配達員に昇格する。

 

「代配者」にもランクがあり、数区域のみの代配から、最終的には全区域代配可能なレベルへと、順次アップして行く仕組みだった。

 

その当時、私が所属していた販売店の総契約件数は、約5000件であった。最上位の「代配者」になると、約5000件の顧客の位置関係が常時、頭の中にインプットされていた。

 

取扱っていた新聞は十数銘柄あり、朝日、日経、日刊スポーツ、デイリースポーツなどの主要紙以外に、株式新聞や流通新聞、金融新聞、つり新聞、小学生新聞、中学生新聞などの専門紙も配達していたが、優秀な「代配者」は、各戸のポストの形状や場所、契約している新聞の種類、何時頃に新聞が抜かれるかなど、全て暗記していた。

 

まだナビゲーションシステムが普及していない頃、ロンドンの優秀なタクシー運転手は、空間把握を司る海馬が発達していた、という話を聞いたことがあるが、おそらく、かつての新聞配達員も、海馬が発達していたのだろうと思う。ちなみに「代配者」になると、特別手当として約2万円が、毎月別途支給された。

 

「代配者」になってしばらく経つと、「転送者」と呼ばれる地位にランクアップすることができた。「転送者」とは、いわゆる配達責任者のことで、主な仕事は現場の管理と「転送」だった。

 

当時、私が所属していた新聞販売店は、某沿岸市内全域を配達区域としていた。販売店に最も近い区域は第1区、販売店から最も遠い区域は第14区と呼ばれていた。数字が大きくなるほど、販売店からの距離が遠くなる、という区分だった。

 

週末になると新聞やチラシの厚みが増すため、1度にバイクに積める新聞の量が少なくなる。それゆえ朝刊配達時は、通常2~3回は販売店に戻り、新たに新聞を積んで配達に出なければならなかった。

 

第1区や第2区であれば、常に販売店の周囲を配達しているから、たとえ販売店に新聞を取りに戻ったとしても、ロスタイムはほとんど無い。しかし、第13区や第14区になると、配達地点から販売店まで往復10キロ以上あるため、販売店まで新聞を取りに戻るとなると、相当なロスタイムが発生してしまう。

 

また、1区域の配達件数は平均350件程度で、そのうち50件くらいは時間指定があったから、少しでもロスタイムを減らすため、予めその区域ごとに転送場所を2~3ヶ所設け、新聞を「転送」してもらう必要があった。

 

つまり「転送者」は、配達員が1回で積み込めなかった、配るべき残りの新聞を、配達員がその転送場所に辿り着く前に先回りして、置いておくのが主な仕事だった。したがって、「転送者」は全ての配達区域に精通している、「代配者」以上のレベルでないと務まらなかった。

 

基本的に配達業務には、新聞配達専用に開発された50ccのホンダ製プレスカブか、ヤマハ製メイトが使われていた。しかし、50ccのヤマハ製メイトは2ストロークゆえ、マフラー内部の灰の除去を定期的に行わねばならぬなど、メンテナンス性が劣っていたため、最終的にはプレスカブ一色になった。

 

プレスカブはビルの5階から落としても、エンジンオイルの代わりに食用油を投入しても走り続けると言われたほど頑丈に作られていたため、東南アジアでは爆発的な人気を誇っていた。それゆえ沿岸区域の新聞販売店では、窃盗団によるプレスカブの盗難が相次いでおり、新車のプレスカブを与えられた配達員は、カブが盗難されて東南アジアに売り飛ばされぬよう、ヒヤヒヤしながら運転しなければならなかった。

 

その後、4ストになったタウンメイト90が発売されると、最も巡行距離数が多い第14区のために、高価なタウンメイト90が、1台だけ配備されることになった。

 

当時、中型免許を所持していたのは「転送者」に昇格した私と、第14区担当のMさんだけで、発売されて間もないタウンメイト90に乗ることができたのは、我々2人だけだった。

 

我々は嬉しさのあまり、用もないのに社用のバイクを乗り回すことになってしまったわけだが、誰もいない明け方の海岸沿いを、出来立てホヤホヤのタウンメイト90で走り抜けた爽快さは、今でも忘れられない。

新聞奨学生時代の思い出(2)

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通常、朝刊の配達は深夜1時30分~朝6時まで、夕刊の配達は14~16時までだった。他には月に2回くらい、朝6~9時までの電話当番があった。

 

電話当番は、朝刊配達完了後から事務員が出勤してくる朝9時まで、新聞販売店内に設置された電話の前に、ボーっと座っているだけで良かった。しかし、運が悪い日は、不着(新聞が入っていない)や、誤配(違う新聞が入っていた)の電話がバンバンかかって来るため、3時間の電話番はあっという間だった。

 

Aコースの奨学生は、毎日約6時間の配達業務に加え、集金業務として月末25日~翌月10日まで、30時間ほど多く働かなければならなかった。 Bコースの奨学生は、基本的には朝夕刊の配達のみだったから、毎日の労働時間は6時間前後で済んだ。

 

しかし、実際には配達区域によって、労働時間および労働量に大きな格差があった。例えば、2~5階建ての、エレベーターおよびオートロックがないアパートやマンション、県営住宅が密集しているような区域では、朝刊時は上階まで新聞を運ぶのが鉄則で、酷暑や雨の日が続くと、逃げ出したくなるほどキツかった。

 

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また、配達部数もピンキリで、楽な区域だと朝夕刊合わせて300部程度、最もキツい区域だと朝夕刊合わせて600部超えで、2時間程度の余分な労働を強いられた。

 

ちなみにこの時、法律上、5階建てまでのマンションにはエレベーターを設置しなくても良い、ということを知った。

 

新聞奨学生を無事卒業することができる学生がいる一方で、「追わないでください」と記された謎のメモをちゃぶ台の上に残して夜逃げする学生が少なからず存在したため、突如として、担当区域が変更になることがあった。

 

私は配達が速い上に誤配、不着する件数が少なかったためか、いつもキツい区域ばかりを担当させられた。それゆえ、配達中、いつも頭の中には、「早く辞めたい、早く辞めたい」というネガティブワードが延々とこだましていた。とにかく、毎日のルーティンワークと学校の宿題をこなすことだけで、あっという間に1日が過ぎ去ってゆく日々だった。

 

新聞は毎日刷られるモノであるから、当然ながら、毎日交代で誰かが新聞を配達しなければならなかった。しかし、1年で1日だけ、1月2日だけは朝刊も、夕刊も、配達しなくて良かった。

 

新聞業界には「新聞休刊日」という、各新聞社同士で予め取り決められた、新聞配達員の慰労デーみたいな日が、年間約12日あった。

 

「新聞休刊日」は毎月第2月曜日だったが、1月2日以外は夕刊の配達が必須だったから、全く心が休まらなかった。

 

槍が降ろうが、大雪の翌日で路面がガチガチに凍結していようが、朝晩いづれかの配達業務は毎日必須だった。それゆえ、1年で唯一ホッとできる日は、元旦の朝刊を配り終えたあとの、約1日半だけだった。