インチョーのブログ(表)( ´∀`)

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ある夏の日の晩餐(前)

2013年の8月28日は、今でも昨日のことのように覚えている。

 

私は松江での3年余りの任期を終え、9月からは師匠がいる三鷹の北京堂を引き継ぐため、東京へ戻ることになっていた。

 

私が島根を離れることを知った師匠のお父さんは、「8月28日に東出雲の祭りがありますが、ウチで一緒に夕飯を食べませんか?」と言った。実は、それ以前にも、武内神社の夜通しの祭りを見に来ないかと何度か誘われていた。しかし、鍼灸院の都合で止むを得ず断っていた。

 

何故か、今回は最期の機会になるかもしれないな、という思いが脳裏をよぎった。それゆえ、断らないことにした。独りで行くのも何だか侘(わび)しい気がしたので、「こびとを連れて行っても良いですか?」と聞くと、お父さんは「どうぞ、どうぞ」と言った。東出雲の祭りは穂掛祭と言い、毎年行われる、揖夜神社の神事らしかった。

 

この日は水曜日で、仕事を終えてからバイクで東出雲へ向かった。松江の学園通りから東出雲までは、バイクで10分くらいだ。すでに日が暮れかけ、周囲は薄暗くなっていた。

 

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師匠の実家は9号線沿いにある。9号線は出雲から松江、米子をつなぐ山陰の大動脈だから、比較的車の往来が激しい。それゆえ、車で行くと駐車場の出入りが難儀なので、バイクで行くことにしたのだった。何とか、19時前に到着した。

 

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とりあえず、島根を離れる前に、記念として北京堂発祥ハウスの外観を撮っておくことにした。

 

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ボタンだけのインターホンを押し、見慣れた引き戸を開けると、待ってましたとばかりに、お母さんが出迎えてくれた。

 

股関節をかばうように、肩を左右に大きく揺らして歩くお母さんについてゆくと、8畳の和室に通された。部屋の真ん中には、こげ茶色の四角い座卓があり、左右に座布団が2つずつ敷いてあった。

 

こびととお母さんは初対面だった。私がお母さんにこびとを紹介すると、お母さんは何の脈絡も無く、「あら!あなたバレーボールやってるの!」と叫んだ。こびととバレーボールを結びつけるような情報は一切見当たらなかったが、どうやらお母さんは、こびとがバレーボールの選手か何かであると思い込んだ様子だった。お母さんはビールが好きで毎日飲んでいるとのことだったから、アルコールによって側頭葉が委縮し幻覚が見えているのではなかろうか、と想像した。

 

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我々が返答に困っていると、お母さんはおもむろに窓を開け、庭の植木に水をやり始めた。もはや、こびとがバレーボールをやっているか否かはどうでも良い様子であった。

 

 

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お母さんが水やりをしている間、かつて、師匠が治療部屋に使っていた部屋を覗いてみることにした。お父さんは私を信用していたから、普段から、治療部屋は自由に見て良いと言ってくれていた。そういえば、東京にいた師匠から、「〇〇の本を探して送って」と頼まれたことがあったが、本が多すぎて探すのが大変だった。

 

北京堂が松江の学園通りに移って以来、ここは徐々に物置部屋に変わっていったようだった。本棚には、師匠が中国でコツコツと買い集めた、中医関係の本がギッシリと並べられていた。どれも、今では絶版になった貴重なモノばかりだった。鴨居の上には、青い箱に入った、特注の4寸鍼が無造作に並べられていた。

 

私が弟子入りして間もない頃、師匠は「実家には鍼灸湯液の本が1000冊以上あるだろうなぁ」と呟いていたことがあったが、確かにそれくらいはありそうだった。30年前の中医書は紙質が悪く、古いペーパーバックのようで、貧しかった中国を垣間見た気がした。

 

しばらく本棚を眺めたあと、客間へ戻ることにした。座布団に座り、窓越しにお母さんを眺めていると、お父さんが急須と湯呑をお盆に載せて、客間に入ってきた。湯呑に注がれたお茶をすするや否や、お父さんが、「風呂を沸かしてありますから、先にお風呂に入ってください」と言った。今の東京では考えられないことだが、これが田舎における、客人のもてなし方なのであろうな、と想像した。

 

風呂場は昭和を感じさせる作りで、正方形の水色の風呂釜の横に、小さなスノコが置いてあるだけだった。シャンプーやリンス、コンディショナーなどは無く、固形石鹸が1つ置いてあるだけだった。とりあえず、シャワーで体を流し、湯船に浸かった。

 

風呂の北側には小さな窓が付いていて、窓の外には青々と密生した稲穂が、その向こう側には山陰本線の線路が見えた。湯船に浸かってしばらくすると、ガタンゴトンと、電車が通り過ぎる音が聞こえた。平和なひと時だった。そういえば、お父さんとお母さんは、山陰本線のことを電車とは言わず、汽車と言っていたな、と思い出した。

 

風呂から上がり、脱衣所に用意してあったタオルで体を拭いた。風呂に入る前に、予めドライヤーが無いことを確認していたから、頭は洗わなかった。以前、僻地にある温泉へ行ったとき、脱衣所にあると思い込んでいたドライヤーが無くて、後悔したことがあった。それ以来、自宅以外で風呂に入るときは、必ずドライヤーの有無を確認してから、頭を洗うかどうかを決めることにしていた。

 

 

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少しスッキリした気分で客間へ戻ると、座卓には料理が並べられていた。お母さんは私を見て、「今、お父さんが魚を焼いていますから、座っていて下さい」と言った。

 

お母さんとこびとと与太話をしながら10分ほど待っていると、お父さんがニコニコしながら、焼いたばかりの魚を運んできた。お母さんは、「お父さんは魚を焼くのが上手なのよ」と言った。

 

私が、「鯛と鮎なんて、東京じゃ滅多に食べられませんよ」と言うと、お母さんは、「あら、そうなの」と笑みを浮かべながら興味深そうに言った。

 

 

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島根にいた頃は境港が近いせいもあり、美味い寿司は散々食べた。しかし、お父さんが買ってきてくれた五右衛門鮓の鯖寿司は、一度も食べたことがなかった。お父さんは、「米子に本店があってね。中々美味しい寿司ですよ」と言った。お父さんは、さりげなく、五右衛門鮓の小冊子を置いてくれていた。確かに、これは美味かった。

 

一方、お父さんが焼いた鯛と鮎は焼くのが上手と言うわりに、少し生焼けのような気がした。しかし、心優しい私は、「美味しいですね」と連呼しながら食べた。

 

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島根に来て間もない頃、そもそも師匠が何故に鍼灸の道を選んだのかを、お母さんに問うたことがあった。当時、師匠は東京の大学に進学し、桜上水に住んでいた。しかし、甲州街道近辺を漂う排気ガスの影響か、呼吸器を悪くし、一時的に島根に戻ることになった。ある日、家族でテレビを見ていた時、ドキュメンタリー番組か何かで、中医が西医に見放された患者を針灸で治す、というシーンが放映された。

 

で、これを見ていた師匠は「おかあちゃん!これからは針灸の時代だよ!僕は針灸学校に行く!」と言ったそうだ。要するに、お母さん曰く、師匠が鍼灸の道に入ったきっかけは、テレビ番組だった。どこまでが本当の話なのかはわからなかったけれど、師匠の昔話となると、お母さんは大そう嬉しそうに語ったものだった。この日もお母さんは、何度も聞いたことがある師匠の昔話を、延々と語り続けた。

 

食事が終わり、デザートにブドウが出てきたが、さすがに食べきれなかった。すでに、20時30分を過ぎ、外は真っ暗だった。私が何気なく時計を見やると、お母さんが、「あなた達、せっかくだからお祭りに行って来たら。東京の人は田舎のお祭りを見たことが無いでしょう」と言った。

 

すると、お父さんが間、髪を入れず、「私が案内しましょう」と言った。お母さんは股関節が悪いせいか、室内を歩くのもしんどい様子で、「私は家にいますから」と言った。結局、これが、お母さんとの最期の会話になった。